太極武藝館




現在の太極拳



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本家本元・河南省温県の現代推手試合


 陳家溝のある河南省温県で行なわれる、陳式、楊式、武式、趙堡架式などの選手が世界中から参加する国際推手試合のビデオがある。
 ビデオの内容は、1996年8月・・つまり、文革の終幕から20年を経た陳家溝で行なわれた『第4回国際太極拳年会・第2回陳家溝国際太極拳錦標賽』の映像であった。

 その試合は、日本の相撲よりもさらにルールが狭められて限定されたものであり、顔面への掌打(相撲の張り手)も認められておらず、実戦武術試合と銘打つにはやはり貧弱すぎる感があった。

 試合の内容は、選手たちがまず四正推手の形で手を回した後、組み合ったまま相手を投げ倒すことをひたすら応酬し合うというもので、それを「攻撃を封じながら無力化し、反撃に転ずる技術」などと言えなくもないが、仮にも太極拳の試合で、究極の戦闘技術は「化勁」である、と形容するためには、まず、このルール内容を根本的に見直す必要があると思う。

 国家体育委員会の規則によれば、この大会に出場する選手は、推手の競技以前に太極拳套路の審査に臨み、それをパスしなければならない、とある。
つまり、太極拳の学習経験があることが最低条件、という訳である。

 試合ルールの要点は、以下のようなものである。

 *攻撃対象部位は、頚部以下・恥骨以上の身体と両腕に限定する。
 *強引な引き、組み付き、足掛け、足払い、相手の足を踏むことの禁止。
 *膝で相手の足や膝を地面に押し付けるような行為の禁止。
 *相手の身体と接触しない状態で打撃を加えること(パンチ)の禁止。
 *相手の衣服をつかむことの禁止。
 *拳打、頭突き、逆関節技、擒拿、頭髪掴み、点穴、肘打ち、掃腿、
  膝蹴、のど輪、急所攻撃の各行為の禁止。

 これを見れば分かるように、要するに相手にくっついたまま推す、引く、投げるをするしかないことになり、出場した選手たちはまさにその通りをやっていたが、これではまるで「張り手なしの相撲」か「足払いと、掴みと、関節技が禁止された柔道」のようにならざるを得ず、スポーツ化した武道としての体裁さえも備えていない。
 そして、この大会で強者と言われるような実力を持つことが、果たして「究極の戦闘技術・化勁」を証明することとなるのだろうか。

 例えば、この推手大会に選手として出場した彼らは、日本の直接打撃制の空手家たちとは、どのように戦えるのだろうか?
 その場合も、同じように「化勁」を用いて攻撃を封じ、太極拳の武術レベルの高さで、戦うことの無意味さを相手に納得させることができるのだろうか。
 私は、それを大いに疑問に思っている。

 フルコンタクトの空手の試合を例に挙げると、それは顔面打撃を認めるか否かで、実際の戦闘力が大きく変わってくるのである。
 牛殺しの実戦オーヤマ空手で名を上げた「極真会館」は、顔面への攻撃を、たとえ掌打といえども認めていないが、そのせいか、試合では反則のパンチを顔面にもらって顔をしかめるシーンが往々にして見られる。
 大山倍逹の後を継いだ現館長さえも、天才と称された現役時代に、時折、色帯程度の者にも金的蹴りや顔面への突きをもらって苦しそうな顔をしているのがビデオで確認できるという。試合や昇段審査では相手側の「反則」とされても、武術的には、その反則をくらった方の劣勢、つまりは「負け」であることに変わりはない。

 そして、それではと、その昔、東孝(あずまたかし)支部長が、東北の大会でスーパーセーフという面を着けてデモンストレーションをやったら、大山館長にひどく怒られた。
 『館長、どうして顔面はダメなんですか?』としつこく聞く東支部長に、
 『キミィ、顔面ありをルールに入れタラ、外人に勝てないだろ!』
 ・・・と、かの大山倍逹は答えたという。

(「最強最後の大山倍逹読本」・日本スポーツ出版社より)


 陳家溝の推手試合のビデオは、「パンチ、キックを封じる最強の技術」と紹介されていたというが、そもそも、この試合のルールではパンチやキックを禁止されているのだから、その実際的な証明にはならない。

 私たちは、「推手」を武術の試合にするということ自体、根本的に間違っていると思っている。なぜなら、推手は「練功の方法」であって「戦闘の方法」では無いからである。つまり、その性質上、競技には成り得ないものを競技化しているのだから、競技として無理が出てくるのは当然であろう。

 太極拳は「拳術」であって「推手術」ではない。
少なくとも私の学んだ太極拳は、推手の練習のように戦ったりはしない。しかし、多くの人はそのようなイメージを持ってしまっている。
 そして、拳術であるということは、それが「武術」であるということであり、武術であるということは、突きがあり、蹴りがあり、擒拿があり、投げがあり、防御があり、攻撃があり、化勁があり、発勁があり、太極拳のすべてがある、ということなのである。

 国家体育委員会は、太極拳の試合を他の拳術の「散打」のようにしたくはない、という意向を持っているらしく、本場の推手大会の内容がこのようなものになってしまうのは、文革後に世界中にアピールした太極拳の「ソフトなイメージ」を壊さないための方策とも考えられる。

 文革後に、他の拳術門派の「散手」と同様、スポーツとしての競技化が推進されて来た太極拳の「推手」は、皮肉にも、太極拳が如何にスポーツに成り得ないものであるかを、実際に証明してしまう結果となったのである。


太極拳は実戦的に優れている


 実際に散手(組手・スパーリング)をやってみれば分かるが、顔面への攻撃や、突きや蹴りを実際に自由に身体に当てることを認めるのと認めないのとでは、戦闘法や気構えがまるで違ってくる。
 たとえ、武術的な学習体系が非常に曖昧な新興空手門派の選手などが相手でも、実際に殴り合い、蹴りあうことに慣れた彼らと対峙した経験が有るか無いかでは、全く武術としての感覚が違ってくるはずである。
 したがって、先に取り上げたような推手の試合だけを推進しているようでは、太極拳が武術的に衰退の一途をたどることは目に見えている。

 陳氏太極拳の「推手」は、本来、それ自体が非常に「武術的」なものである。
現在、広く紹介されているものは、あくまでも「現代スポーツ用」の基本であって、推手の表側でしかなく、肝心カナメの、それをどのように練り、どうやって実戦訓練につなげて行くのか、というところにフタがされ、幾重にもカギが掛けられてしまっている。
現在では、武術としての本当の推手の意味や訓練法を知る人は非常に少なくなった。

 スポーツ用と武術用では、その学習体系が月とスッポンほども異なる。
例えば、「推手」は、私たちのところでは、陳氏太極拳の伝統的な名称である、 という呼び方を用いるが、推手が「押し合う」という意味でしかないのに対して、「ka-shou」は刃物で削ぎ取る、こそぎ落とす、という意味を持つことを見ても明らかであろう。

 確かに、一般に紹介されている「推手」の訓練体系だけでも、それは「スポーツ」としては素晴らしいものかもしれない。そして、それを練らなければ、太極拳はスポーツとして何ひとつ始まらないのも事実であろう。
 しかし、段階訓練さえ無い、国家認定の「スポーツ套路」を練り、それを競技として表演し、あるいは押し合い、絡み合うだけのスポーツ試合のための推手を訓練していても、太極拳が優れた伝統武術として、後世に残されていくことは非常に難しい。
 時流に遅れまいと、楊氏や呉氏太極拳の真似をしていても、武術としての陳氏太極拳が正しく後世に残されるとは信じ難い。

 私たちは、そのような現状に、非常に危機を感じている。
 太極武藝館では、套路の段階訓練はもとより、おそらく武術界には未だ公開されたことのない、遠の昔に失伝されたと思われる、陳氏太極拳独自の武術性に優れた推手や散手の訓練法を行ない、稽古の成果を上げている。

 スポーツ表演ではない、武術としての太極拳を目指すのであれば、先ず誰の目にも高度な学習体系が確立されていると信じるに足る門派に身を委ね、武術的に高級な基本を理解した上でそれを学び、練り、身に付け、それを基に、正しい順序と段階を踏んだ套路や推手の訓練と、実戦的な散手の段階訓練をして行かなければならない。
 なお、ここでいう「実戦的な散手」とは、フルコンタクト空手流派のスポーツ組手練習のスタイルとは、その意味も内容も、全く異なるものである。

 陳氏太極拳自体がどれほど武術的に優れていようと、「表演用の套路」と「スポーツ試合用の推手」の為の功夫を練るだけでは、本来の武術功夫は養われようがないことは、誰が考えても明白であろう。 
 スポーツとしての太極拳と、武術としての太極拳の違いは、まさにそこにある。
そのふたつは、そもそも「訓練の出発点」が異なっているのだ。

 太極拳が「武術的」に見て、どのように実戦的に優れたものであるかは、噂を聞いて私たちのところに入門して来る、他門派の武術や武道を長年に渡って学んで来た有段者や指導員、師範、或いは、大会などで好成績を残して来た実戦空手系の猛者たちに、彼らが入門した動機や感想を聞いてみれば分かる。

 彼らが言うには、まず、私たちと実際に手合わせをした時に、彼らが太極拳に対して非常に戦いづらい、ということがある。
 彼らの攻撃は当たりづらく、反対にこちらからの攻撃は避け難いためにヒットし易い。
そして、彼らが攻撃をしてもそれを無力化され、居着かされ、崩され、放り投げられ、後ろを取られ、反撃する暇もなく顔面や後頭部から床に叩き付けられてしまう、という感想を述べている。

 私たちは、陳氏太極拳がその本来の姿である、数百年の伝統を有する真の意味での「伝統武術」として変わることなく未来にも存在し続けるために、まことに微力ながら、その優れた拳理拳学と実戦性を保存し、更なる研究を今後もたゆまず続けて行きたいと思っている。


(了)

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