太極武藝館




太極拳の訓練体系



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訓練体系は、「 站椿 」に始まる


 太極拳で最も重要な基本は「站椿 ( たんとう・zhan-zhuang )」である。

 これが理解されなければ、太極拳の全ての練功は徒労に終わってしまうし、これを練らなければ、太極拳のチカラは何処からも出てこない。
 また、太極拳の「武術」としての意識活動は、この「站椿」に於いて始められなければならない。

 非常に残念な事に、「站椿」は、今日では多くの太極拳修行者たちに、ほとんど重要視されなくなってしまった。 
 站椿は、もはや太極拳にあっては「武術」ではなく、単なる「気功法」に成り下がった感があり、それこそが、太極拳が "牙を抜かれた虎" などと形容されるような、実戦には使えない、ただの健康体操になってしまった大きな理由のひとつであると思う。

 今では、たとえ「站椿」を行なっている太極拳門派であっても、その本来の訓練の仕方を忘れ、まるで養生気功法であるかのように、気の流通を求めるだけで站椿の練功とするようになり、站椿の訓練体系も、武術の練功としては非常にお粗末なものとなってしまっている。

 そして、これは、今や本家の陳家溝でもその傾向にあるらしい。
 90年代になって、老架系18世の馮志強老師が、站椿功の含まれている「採気功」という名の基本練功を発表し、数年後、同じものを陳家溝の四傑に名を連ねる王西安老師が、日本の某武術雑誌で発表しているが、その誌上で王西安老師は、
 『昔の陳家溝の人たちは皆これをやったと思うが、今ではやる人が少なく、
   知らない人も多いかもしれない・・・』
と語っている。

 しかし、この「採気功」にしても、楊家を中心として世界的に注目を集めた「気功法」を前面に出した太極拳の流行にともなって、近年新しくアレンジされたものであるように思え、実際にそのものを目にしたわけではないが、恐らく本来の「武術」のための練功の形式になってはいないのではないか、と想像するのである。

 かつて、「站椿」は、武術家の健康法ではなかった。
 站椿は、武術家が武術として戦えるための、身体内部の基礎を練り上げ、武術として想いどおりに瞬時に動ける身体を創りあげるための、非常に重要な練功なのである。

 この「站椿」が理解されれば、套路や基本功がこの原理によって成り立っていることが解り、日常生活もその原理で過ごせるようになる。
 初学のうちは、この站椿功によって拳理を深く理解しなければならず、特に意識訓練としての站椿功を繊細に練り上げなければ、太極拳の理解や上達はまったく望めないと言って良い。
 太極武藝館が「站椿功」を非常に重視する所以である。

 「站椿」と言えば、今日では老師によって創始された「意拳」の訓練法として有名であるが、そもそも站椿は、その昔は何処の門派でも行なわれた、非常に重要かつポピュラーな訓練方法であり、決して「意拳」という新拳術の専売特許ではなかった。
 しかし、時代の流れと共に、中国拳術家たちの間では、そのような辛気臭い、根気と時間と創造性を要する面倒な練功法が徐々に廃れていく傾向となり、その練功の本来の意味も次第に薄れていったのではないかと思われる。
 そして そのような時代にあっても内家拳の站椿功を研究し尽くし、まさに温故知新、それを「意拳」という非常に優れた近代新拳術の核心理論に置き、中国武術の文化に大きな功績を残した。
 その意味でも、 まことに偉大な武術家であったと思う。
 今、私たち太極拳修行者はそれに習い、站椿功が武藝練功に与える大きさを、その偉大さを、正しく見直さなければならない。


 さて、実際の「站椿」について述べよう。
 太極拳の站椿は、大きく「無極椿」と「太極椿」のふたつに分かれる。
そして上述の「意功」を以て、無極椿では主に「立つこと」を整備し、太極椿では「動くこと」を中心に整えられていく。
 無極は「静/陰」に属し、太極は「動/陽」に属しており、静功と動功、すなわち、「立つこと」と「動くこと」は、太極拳に於いては別々に練らなければならない。

 無極椿に入る前には、先ず、站椿が正しく行われる為に、全身を「放鬆」(ファンソン=太極拳独自の体軸と張りを持ったリラクセーションの方法)の状態にしなければならない。これを私たちは「三円放鬆訓練 と呼んでいる。

 「無極椿」は「静」の站椿であり、まず太極拳の練拳における正しい意識と姿勢、放鬆された正しい身体の状態を要訣に則って細やかに整備していく。
 ただし「放鬆」は、日本人には非常に理解されにくい観念のひとつであり、近年日本で流行した「脱力」の概念とは全く異なっており、この「站椿」を理解するには、先ずは「放鬆」についての正しい認識が必要ということになる。

 この「放鬆」は、太極拳にとっては非常に重要な要素である。
 この站椿を修練している時に、身体がどのくらい放鬆されるかによって、站椿のみならず、それ以降の稽古のレベルが決まる、と言っても過言ではない。

 「放鬆」が理解できると、例えば、直径が60〜70センチのボールの上に、まるで雑技団の玉乗りのように、フワッと立つことができる。
 因みに、当館の『拳學研究會』のクラスに在籍する者は、このようなボールの上に非常にリラックスした身体で"ヒョイ"と立ってしまうし、熟練するとボールの上に立ったままバウンディングをすることもできる。

 なお、この "玉乗り" は、当館では「虚領頂勁」と「放鬆」のための練習用に、初心者から研究會のメンバーまで、門下生全員が、足を離して腰を掛ける 〜 腰掛けてバウンディングする 〜 足を着けずに腰掛けてバウンディングする 〜 正座して乗る 〜 膝で立って乗る 〜 足で立つ 〜 足で立ってスクワットする 〜 足で立ってバウンディングする・・などと、各自のレベルに合わせて、段階を踏んで行っている。
 しかし、これを「虚領頂勁」や「放鬆」の概念抜きで、足の筋肉などで無理矢理ボールをねじ伏せるように、日常的なチカラで踏ん張ってバランスをとって乗っていると、たとえ形としては何とか立つことが出来ても、武術の目的は "キノシタ大サーカス" に就職することではないので、練功として意味がなく、注意が必要である。

 また、この「放鬆」の訓練の時に同時に調整される「三円の軸 は、「」「太極勁」「纏絲勁」などの、陳氏太極拳の勁道や勁力の基礎となる非常に重要なものであり、私たちは、これらの訓練法を宝物のように大切にしている。

 上述の「三円の放鬆」で、体中に放鬆が意識された後に、「站椿」の訓練に入る。
 站椿における身体の整備は「意(yi)」によって為され、その整備された身体のまま静止し、主に自然を対象とした様々な意念を用いて、放鬆の中で「静中の動」、すなわち「静極まれば動を生ず」という、無極の中の原初的な「動」を求めていく。

 太極拳における武術的な「動」は、その発生を、站椿の「静」の中で待たなければならない。「静」がある深みのレベルに達したときのみ、本物の「動」が生じてくるのである。
 そして、ここで生じた「動」が次の「太極椿」へと発展して行き、この「動」こそが、すべての太極拳技法の「動き」の根本となる。


 「太極椿」は「動」の站椿であり、太極拳の技法に実際に用いる勁力を練るための最も基礎的、根本的な練功となる。
 つまり、ここからが「武術」の始まり、ということになる。

 この「太極椿」で最も要求されることは、無極椿で整えられた意識と身体の一致が、
と呼ばれる円圏の勁を生み、「動=動くこと」として用いられることにある。

 「太極椿」では、まず を整備することから始められる。
」を完成させるためには、何と言っても第一要訣の「虚領頂勁」を理解して上下の軸を整備し、三円が十分に放鬆されていなければならない。
 この三円は各々、上下、左右、前後、のに属し、これを「意」で導かれた「開合勁」で整えていくことによって、球形に整備された複合的なが形成されていく。

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 それらの具体的な方法については公開を許されておらず、残念ながらこのホームページで紹介することはできない。

 また、太極椿では当門に伝わる「鬆緊功 と呼ばれる、腰部から下半身の筋肉を積極的に活用する特殊な下盤功が訓練される。
 これは「腰勁」を通じて、主に「上腿・下腿・脚」の部位を用いて始められる練功法であるが、非常に合理的で強力な下盤をつくる訓練方法であり、身体内の使われていない休んだままの筋肉を目覚めさせ、必要に応じて何時でも使えるような脳の命令系を練るものである。

 このような訓練を経なければ、武術として相手に技撃作用を与えることは難しく、ただ腕力に頼るか、上半身の動き、腰のひねり、脚の蹴り出しなど、身体外部の支点に頼った動きが加えられたチカラにしかならない。

 また、このような「站椿功」を練る意味は、静止した一定の姿勢を取った身体のもとでは高度な意識活動をすることがより容易になるからであり、さらに「放鬆」の状態の中では身体の力みの箇所が明確になり、「無極」の要求によって、全身がひとつになっている感覚の中では、未だ「勁力」を得ていない所を見出すのが容易になる、という理由からである。


 この「放鬆」は、近年日本の武術界でよく用いられている、「脱力」とはまったく異なったものである。
 太極拳における「放鬆」とは、身体がゆるみ、筋肉が弛緩した状態のことではない。
一般的中国語としての「放鬆」は、緩められ解きほぐされた状態を意味しているが、伝統武術としての太極拳の術語として用いられる「放鬆」は、「身体が正しく張られた状態」のことであり、身体の部分と全体の対立や、放鬆に対立する状態である「緊張」まで含まれている特殊な武術的概念である。
 その辺りを誤解すると、何でもかんでもリラックスして緩め、チカラを抜くことが大切であると短絡に考えてしまいがちなので、充分に注意が必要である。

 放鬆の状態は、ちょうど、綱渡りのロープを渡るには、それがきちんと張られていなければ人が渡れないことや、ゴムボールの中に空気が圧縮されていなければボールとしての役割を果たさないことと似ている。
 試してみれば分かるが、上述の「玉乗り」では、放鬆することはできても、脱力することはできない 。



球の上に立つ

立ってジャンプ

膝でジャンプ


 この「玉乗り」の状態は、非常に高度な重力方向へのバランスを要求されるので、当然ながら「重力に即した」立ち方であるはずだが、玉乗りをしている者の身体は、皆一様に非常に「軽い」状態なのである。
 球の上に立っている者の状態は、手も足も非常に軽い。
持ち上げようと思えば、手も足も容易に持ち上がってしまう。しかし、持ち上げられまいとして足元を安定させたり、下の方に重心を持って来ようとすれば、簡単に球から転げ落ちてしまう。
 そして私たちの太極拳の理論では、「足元が安定している事」とは、身体が限りなく「居着き」に近い状態にあることを意味している。

 私たちには「脱力の理論」は無い。
脱力とはまるで正反対の武術理論を有している、と言ってもいい。
 太極拳独自の訓練法では、如何なる場合にも身体を安定させることなく、固定させない状態を作ることによって「居着き」を無くし、「虚領頂勁」の訓練による、天から釣り下げられているような身体の状態を保つことによって、足を踏まず、蹴らず、球に乗っているような(というよりも、身体が球であるような)状態でこそ、ようやく「勁力」、つまり「力みの無い非日常的なチカラ」を用いることができるようになるのである。

 しかし、踏まず、蹴らず、居着かず、と言っても、太極拳で訓練された身体は、強力な「軸」を持っている。太極拳では「正しく立つ」ということ自体が、すでに「居着かない状態」を意味している。
 それは、私たちが時折稽古で行うような、簡単な「居着きの実験」をしてみるとすぐに分かる。

 まず、肩幅で足を「並行」にして立ち、両手を前方に、肩の高さに挙げる。
そして、押される側は膝を大きく曲げて腰を落としたり、身体を極端に前傾させない(押して来る相手に決して寄りかからない)という条件のもとで、パートナーにゆっくりと両掌を相手に押してもらう。
 普通は、軽い力で押されても、いとも簡単に後ろに崩されてしまうが、正しい立ち方が解れば、相当な力で押されても決して押し崩されることがない。
 また、本当にこの立ち方の意味が「武術的」に理解できれば、かなり強く押されながらも、姿勢を崩すことなく、反対にそのまま相手を飛ばしたり、押している相手を止めながら、その場で足踏みをすることも可能になる。

 次に、足を前後に出し、足幅は肩幅にし、真直ぐに立って、後ろから腰の辺りを前方に水平に押してもらう。
 手や上半身は得意の構えを取っても良いが、腰を低く落とさず、膝は軽く曲げる。
もちろん、押して来るパートナーに(後方に)寄りかかってはならない。
 これも、もし正しく立っていれば、上記同様にまったく崩されることはないが、居着いて立ってしまっていると、実にあっけなく簡単に崩されてしまう。

 この「居着き」については、いずれあらためて、このホームページ上で解明していきたいと思っている。

 「脱力」については、『太極拳を科学する』の中の『よくわかる武術の物理学』のページに、太極武藝館の一門下生によって、物理学の観点から、誰にもよく分かるように説明されているので、それに解説を譲りたいが、このように「放鬆」と「脱力」とは全く異なるものであり、放鬆の意味の中には、脱力という概念は全く含まれていない。
 意味が違う、などという問題ではなく、
そもそも、中国語や中国拳術には「脱力」ということば自体が存在しないのである。
 
そしてそのことは、何故か、今まで誰も指摘したことがない。

 「脱力」は日本語であり、近年日本で発生した日本人特有の武術理論である。
 私は決してそれを否定するものではないが、たとえ日本人が「脱力」を高度な武術原理として捉えても、その理論をもって発勁や化勁などを含む、伝統ある中国武術の原理を解き明かすことはできないと思う。
 中国武術には、数千年の歴史の中で育まれ確立された「武術」としての確固たる理論が有る。
修行者は、中国および中国武術に於いては、「脱力」という言葉や考え方自体が存在しないことを知っておくべきであろう。


「 勁 (太極勁) 」を練るための訓練


 『太極拳は「勁」を尊び、拙力(一般的なチカラ)を重視しない』ということは、今では多くの人が知るところである。

 しかし、これまでに書物やビデオなどで紹介されて来たものは、「発する勁」の種類と、「粘と走」に関する勁、そして「八門手法(四正四隅手)」の勁などであり、それらは皆、「勁」が外側に現れた、表面的なものについて述べられているに過ぎず、勁の真の形態や性質については、いまだかつてその全容が明らかに述べられたことはない。

 もちろん、太極拳に於いては、身体の内外各部の勁を練ることは非常に複雑なものであり、それを言葉に尽くすことの困難は計り知れない。
 しかし、かといって、その真実が実際に正しく説明される機会が無ければ、修行者や研究者は決して十全な理解に至ることは有り得ない。

 太極拳に於いては、非常に残念なことに、時折、スポーツ表演競技とは無縁と思われる伝統武術の「有名老師」と称される人たちでさえ、彼らが語る書籍やビデオの中では、その肝心カナメのところの説明が有耶無耶にされ、それをことさら「神秘性」や「奥義」の陰に隠し、太極拳とは全く異なる門派の拳理にすり替えてまで、その商品価値を高めようとしているようなものが、世界中の武術市場で見受けられる。
 このような実態は、今さら私が言うまでもなく、心ある人は既によくご存じであろう。
 それらは、その名ばかりの老師たちが余りにも「真実」を知らぬことを露呈しているに過ぎないのだが、一般的な武術ファンは、それが有名老師であるが故の正論の解説であり、本物の太極拳の勁力であり、練功であり、戦闘法であり、正当な発勁法なのだと解釈してしまう。
 そしてそれらは、結果として太極拳本来の姿を著しく歪めて伝え、真摯な探求者や研究者を失望、落胆させ、あるいはまた楽観させてしまう結果を生んでしまっている。


 太極武藝館では、太極拳の「勁」を正しく紹介し、中でも、比較的重要な勁を十種類選び、「陳氏太極勁十論」として、各自のレベルに合わせて解りやすく指導をし、特に「拳學研究會」のクラスの稽古では、それを詳細にわたって説明している。

 その十種類の勁とは、まず、関係する身体の部分として、
「頂勁」(頭部)、「腰勁」(腰部)、「襠勁」(襠部)の各勁と、「鈎勁」(脚部)、また、勁の用い方としては、「開勁」、「合勁」、「蓄勁」、「発勁」、さらに、内外の勁を総動員する陳氏太極拳独自の「纏絲勁」と「内勁」を合わせた十種類である。
 これについては、修行者や研究者に少しでも役立てるために、いずれあらためてその詳細について述べる機会を持てれば、とも思う。

 太極拳が他の拳術と異なる所以は、拳術理論に陰陽学説が取り入れられていることにより、「以意行気(意で以って気を動かし)」「以気運身(気で以って身体を動かす)」ことによって、或る特殊で微妙なチカラである「勁力」が出されることによる。
 
 よって、先に述べたように、太極拳では先ず初めに「意」を用いることによって身体が動くように訓練が為される。
 一挙一動には等しく「意」を用いてチカラを用いず、必ず「意」が先に動き、その後に「形(身体)」が動くようにしなければならない。
 そして、そのように「意」が至れば「気」が動くようになり、「気」が動けば「勁」が動くようになるのである。
 この勁は、総称して「太極勁」と呼ばれる。

 なお、ここでいう「気(中気)」とは、一般に考えられているような難解なものではなく、また取り立てて神秘的なものでもない。「気」は科学的なものである。
 近頃は、やたらと「気」をありがたがる人や、反対に、「気」が時代錯誤の呪術幻想であり、気の思想を含む陰陽五行説から脱却するべきであるという意見も在るが、私たちは気や陰陽五行説を立派な「科学」として捉えており、また、現代の太極拳家たちが、それらをこの時代に呪術的神秘思想として捉えているということも、ちょっと考え難い。
 「気」や「太極学」については、一般人はもとより、このように武術家の方々にもたいへん誤解が多いようなので、このホームページでも改めて触れる機会を持ちたいと思っている。

 この「太極勁」が動くようになると、修行者の動きは軽妙かつ沈着なものとなり、相手がいくら力ずくで入って来ようとしても、それを崩すことは非常に困難になるが、反対に太極拳をいくら練ろうとも、この太極勁を習得できなければ、「相手を傷つけずに心服させる」ような高度な勝ち方は出来ない。

 即ち、先人の云うところの、

「もし太極勁が修得できれば、相手は自分の方に入って来ようとしても
 入って来れず、下がろうにも下がれない。そして身体に力が入らず、
 極めて危険な状態に置かれ、相手はまるで石の球の上に立っているか
 のように、むやみには動けず、足を動かせず、どうしても転びそうに
 なる。そのような状況となれば、相手を打たずとも、力量の差を感じ
 た相手は自ずと心服する」

・・・と、いうものである。


 つまり、このような「太極勁」を修得することができなければ、軽妙で巧妙な「化勁」や、実戦的で爆発するような「発勁」も、決して理解には至らないのである。


 ついでながら、単に私たちの勉強不足ゆえかもしれないが、日本において様々な書籍や雑誌などで、まるで太極拳で用いられる独自の勁であるかのように度々語られている、「十字勁」と呼ばれるものは、どの陳氏太極拳にも存在していないし、他の太極拳の系統に存在するとも聞いた事がない。
 私たちの知るところでは、「十字勁」という名称は「八極拳」の勁の段階訓練法のひとつであり、徐紀=Adam Hsu Ji 氏が、台湾の『*武壇 (Wu-Tan)』時代に、師の劉雲樵氏と共に創作した新造語であると思われる。
 因みに、手許にある康戈武著の「中國武術實用大全 (1992年版)」の「十字勁」を引いてみても、『是太極拳勁法用語』・・などとは解説されていない。

 一個人や一門派が、その門派技法の便宜を図るために創造した勁やその名称を、他の伝統的な拳理拳学を有する門派が安易に使用することは、その門派独自の伝統を破壊する行為にもつながることになり、何よりも、ろくに意味も解らずに軽々しくそれを勝手に用いることは、自門派のオリジナルとして「十字勁」を創作した方々に失礼であろう。

 心して戒められなければならない事ではないだろうか。

* 註:『武壇(Wu-Tan)』は、八極拳、劈掛掌、八卦掌、六合蟷螂拳を
    伝承する劉雲樵(Liu Yun Quao)氏が、伝統武術の再興と普及を
    目的として、台湾で創立した組織。
    1971年7月15日開設の「国術訓練班」にその歴史が始まる。
    正式名は『武壇国術推広中心』。



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