太極武藝館




太極拳の訓練体系



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「発勁」にこだわるナンセンス


 ここで、「発勁」について触れておきたい。

 陳氏太極拳といえば、先述の如く激しい発勁動作が表看板のように思われるようになったが、「発勁」は、私たちにとっては学ぶべきひとつの勁、つまりチカラの種類でしかなく、例えば先に述べた「陳氏太極勁十論」から観ても、単に「十分の一」に相当するものでしかない。

 現在の日本では、1970年代の初め頃から、台湾の「武壇八極門」の、徐紀=Adam Hsu Ji 氏の 独自の発勁論が、弟子である松田隆智氏を通じて日本に紹介されて以来、今なお「発勁」が神秘的秘伝であるという観点から、中国拳術を語りたがる傾向が残っている。
 その現象は、我々から見ると非常に不思議なものに思えるが、この日本では、まだ依然として「発勁=神秘」という定義がつきまとっていることを否めない。

 前述の武術研究家、松田隆智氏の「少林拳入門 (1973年初版/サンポウブックス刊)」を初めとする一連の著作には、

  『発勁は最も秘密とされている。
   発勁を用いると余りにも威力があって危険なため、
   容易に習う事が出来ない。
   中国では、専門家といえども、これを知る者は滅多に居ない。』

  『体内に蓄えた強力なエネルギーを一気に爆発させる法を
   発勁と言い、秘伝とされている』


 ・・ということが書かれており、初版から30年を経た現在では、日本国内にも様々な中国拳術を学ぶ人が増え、今の時代にこれを字面通り鵜呑みにしてしまう青少年はあまり存在しないかもしれないが、当時は一種のカルチャーショックのように、「神秘の発勁」に興味を持った好奇心旺盛な青少年の心を捉え、また、それらの著書も爆発的に売れ、版を重ねて行ったと聞いている。
 そして、それらの著書や、松田氏が原作者である漫画の「拳児」等によって大きな影響を受けた人たちが中国拳法に興味を持ち、多くの人を中国拳法の修行に導くブームの原動力になったのは、誰もが知るところであろう。

 「発勁」は、私たちにとっては非常に『科学的』なことである。
そして発勁は、何もことさら神秘的に爆発しなくても、小さくても、大きくても、きちんと相手に向けて発することができるものである。
 現に、私たち太極武藝館の稽古では、40代の細身の女性が、正しく教わった「発勁」の原理によって、空手歴十何年の大男を "ヒョイ" と、非常に小さなチカラで飛ばしてしまう光景が見受けられる。

 「発勁」にこだわっている人たちに共通するのは、表面的に外側に現れるチカラや、その効果(結果)ばかりを取り上げ、発勁の絶対的な前提となるもの、つまり「化勁」や「蓄勁」についての研究や発想が、非常に貧困であるという点であろう。
 なぜ、発勁にこだわる人たちは「蓄勁」にはこだわらないのだろうか・・?
 私たちは、いつもそれを疑問に思い続けて来た。

 様々な武術の雑誌や書籍では、「発勁」と名の付く本や雑誌の特集は組まれても「蓄勁」の研究特集は組まれた試しがないし、日本の中国武術界では「蓄勁」を熱く語ったり、研究発表をしたり、研究書を出版した事は皆無であるように思える。

 強力無比な発勁の根源となる「蓄勁」とは、一体何であるのか・・・
 太極拳は深遠である。もし私たちが「蓄勁」の研究を発表すれば、大げさではなく、有に一冊の本が書き上がってしまうほどの内容を語ることになるだろう。

 もう一度、問いかけたい。
 何故、発勁にこだわる人たちは「蓄勁」にはこだわらないのだろうか?
 思うに、それは、練功がひたすら「発勁」、即ち、如何に相手に強力にチカラを加えるか、という事ばかりを指向してしまい、太極拳の基本訓練自体が、実は「勁を養うこと」は無論、「蓄勁」、つまり「自分の身体のありかた」を理解するために、その多くが割かれていることを知らぬ、という理由に他ならないのではないか。

 「発勁」は「蓄勁」の訓練抜きには有り得ない。
 巷に出回っている書籍やビデオで最も有耶無耶にされている点は、まさにここにある。
  
 「蓄勁」が語られないという事は、矢を放つことを教えるときに、弓を引くことの説明を省くようなものである。

 矢そのものがどれだけ速く飛び、強力に突き刺さるのだ、と言われても、その原理が説明されず、実際に証明もされ得ないのであれば、それはもはや武術とは言い難い。
飛んで行くのは「矢」でも、飛ばしているのは「弓の本体」なのである。

 そして、「弓の構造」が分からなければ、弓を引く事も、どうやって矢を射るかも解らず、終いには矢を強く放り投げて見せることで、それが優れた発勁であるかのように説明するしかないはずである。事実、初心者の多くは、そのように動き、そのように発勁を捉えようとする。
 弓道でも、初心者はいくら懸命に弓を引いても矢が的まで届かなかったり、途中で地を這ったり、矢を放つ前に足元にポロリと落としたりする、というが、その話は勁力の本質を言い得て妙であると思う。
 しかし、いわゆる「有名老師」と言われる人たちが、そのような間違った勁力を演じているビデオは世界中に呆れ返るほど数多く存在し、中国拳術の本当の姿を歪めて伝えている原因にもなっている。

 日本に中国拳術が紹介されて、早くも四半世紀が経つ。
 突然の中国拳法ブームに湧いた日本では、未だに「神秘の発勁論」を求めるような風潮が根強く残っているが、それは日本人だけに見られる特異な現象である。
 我々日本人はもっとそれを認識し、本物の功夫とは、正しい拳理拳学のもと、熟練の職人が佳酒を醸すように、ゆっくりと手間をかけ歳月を費やしてこそ養われるものであるということを、よく理解する必要があるのではないだろうか。


纏絲勁の訓練


 「太極椿」で勁を練る方法は、基本訓練のすべてに応用され、それこそが陳氏太極拳の実戦性へと繋がっていくのだが、そのような訓練の中でも最も重要なもののひとつは、『纏絲勁訓練』である。

 最も基本的な「纏絲勁」の訓練は、通常は「馬歩」または「側馬歩」で立ち、単手の順纏絲・倒纏絲、双雲手、双手内纏、交互双手内纏、双手外纏、交互双手外纏、前後双手纏などを、 を用いて、八門手法の勁を含ませながら行なう。
 これを、私たちは『纏絲勁訓練』と呼んでいる。

 また、定歩(静止した状態)で練習を行った後は、様々な種類の活歩(歩くこと)でその形を繰り返し、「意」によって導かれた様々な身体要求を満たしつつ、勁力を練らなければならない。
 この訓練は、纏絲勁への理解を促し、套路を初めとする全ての練功において纏絲勁が練られるようにするためのものであり、「意」で導かれた歩法、身法、手法を纏絲勁に向けて調和させる訓練であると言える。

 「纏絲勁」は、陳氏太極拳独自の勁である。
 そして、この纏絲勁の訓練方法の内容詳細は、これまで一切公開されておらず、どのようにして纏絲勁が練られ、どのように纏絲勁が成立するのかを「理論」として正しく知る一般修行者は極めて稀であると聞いている。
 また、本場で正しい系統の陳氏太極拳を修行した人の中にも、『套路は一種の体操であり、体操以上の効果はなく、纏絲勁と套路は無関係である』・・などという意見があると聞くが、それはこの「纏絲勁理論」を知らぬ事に由来しているのではないだろうか。

 何故なら、陳氏太極拳とは『纏絲の法』であり、套路を含む全ての練功は纏絲勁を追求するために存在しているからである。「纏絲の法」を追求するために誕生し、それをひたすら続けている独自の理論を持つ拳術の套路が、どうして「ただの体操」であり得るはずがあるだろうか。

 套路については改めて述べたいが、「套路」は、太極拳探求者に汲めども尽きることの無い武藝の本質を与えてくれる泉であり、私のように拳学の浅い者でも、練れば練るほどに、知れば知るほどに、何ゆえに太極拳に套路が存在している理由がよく分かってくる。
 問題は「套路」そのものにあるのではなく、「套路の正しい訓練方法」を学んだかどうかである。確かに、正しい訓練法を学んでいなければ、套路は「ただの体操」にしかならない。


 さて、「纏絲勁」には内外のはたらきがあり、それらがひとつになって、その纏絲勁が成り立っている。
 つまり、内側では「内纏 (nei-chan) 」と呼ばれる、「意・気・神」で導かれる、内側に隠れた纏絲の運行が生じており、また、外側には「外繞 (wai-rao) 」と呼ばれる、「筋・肉・骨」に由来する螺旋運動が現れてくるのである。

 纏絲勁の訓練は、「意・気・神」で導かれる内纏 (nei-chan) から始められなくてはならない。
言うまでもないが、纏絲勁を誤解して、外側に現れる螺旋運動をどれほど真似て、腕やカラダをグルグル捻り回しても、決して正しい纏絲勁にはならない。
 纏絲勁を正しく修得するには、先に述べた正しい無極椿・太極椿の訓練と、纏絲勁独自の訓練が必要になる。 但し、それ以前に、纏絲勁の要素となる「身法」や「歩法」の詳細にわたっての訓練や、それについての正しい理解を得なければ、これらの訓練は何ら意味を成さない。

 ここでいうところの「身法」や「歩法」は、たいへん重要なものである。
 特に「站椿」や「歩法」の何たるかが解らなければ、もはや太極拳にはならないし、纏絲勁どころか、武術と呼ぶにさえほど遠いものになる。
 套路が体操でしかないと思う人は、本当の武術的な歩き方である伝統の「歩法」の理論の説明を受けたり、それを試しに体験するだけでも、そのような考えが根底から覆され、太極拳の "奥妙" を思い知らされることになるだろう。


推手と化勁と・・


 「推手(すいしゅ)tui-shou」は、陳氏太極拳では本来 と呼ばれ、「推す」という字と違って、あまり一般に知られていない『刃物でこそぎ、削り落とす』という意味を表す文字が使われているが、このホームページでは「推手」という語を用いることにしたい。

 武術として伝えられている推手は、今日、多くの太極拳の教室や道場で行なわれているスポーツ運動や競技としての推手とは、その意味合いも内容も全く異なっており、それだけを取り上げても、陳氏太極拳が優れた実戦武術であることを証明することができる。

 「推手」は本来、太極勁を用いる時の身体操作を学ぶために工夫された、非常に合理的な練習方法であり、基本功で練られてきた勁力が、具体的にどのように用いられるのかを学び、さらには、より実戦に近い「散手」の訓練に正しく至るための、最も重要な訓練法として整備されている。
 したがって、推手の訓練方法を見れば、その門派の実力や、それが武術として行なわれているかどうかを一目瞭然に見て取ることができる。

 推手で学ぶべきことは数多いが、それが重要な練功であるとされる最大の理由は、推手が「化勁の訓練」である、という事による。


 推手は「化勁」の訓練法であるが、太極拳を学ぶ人の多くは、「化勁」と聞くと相手のチカラをいなすもの、つまり「さばき、流す」ための方法であると捉える人が多く、事実今までは武術研究家や武術家たちも、皆、そのように説明して来た。
 そして、それ以上の内容となると、「相手のチカラに合わせ、抗わずに随い、引いてスキを作り、そのスキに落とす(反撃する)」・・などと、修行者にとっては何のことだか訳の分からぬものが多く、いったい「化勁」がどういうものであるのか、具体的に中身が見えない解説ばかりが多かったように思う。

 しかし、「化勁」の実際は、高級拳術の高度な実戦訓練法なのである。
ここで太極拳に於ける「化勁」を定義してみると、

   を用い、相手の攻撃を同質化、無力化する技法。
    また、蓄勁から発勁に至る過程で用いられるチカラおよび作用のこと』

 ・・・ということになるであろうか。

 正しい「化勁」の理論を有し、それが正しく理解され、練功として正しく用いられ、なおかつそれが実用として用いられていなければ、それは太極拳とは言えない。
 しかし、これが「化勁」である、化勁はこうやって行われる・・・と明確に、具体的に説明がなされた事は、私たちが知る限り、かつて一度もなかった。


 因みに、「中國武術實用大全」(康戈武 編著/1991年/今日中国出版社)によると、「化勁」は次のように説明されている。

   化勁とは、円弧による化で、柔らかく、を内に含む力である。
   相手の攻撃動作を化により処理するもので、この勁の用い方には2種類ある。

   其の一:相手の勁の方向を変え、勁を自分の身体のすぐそばを通るように
       しむける。具体的方法としては、相手が正面から直線的に攻撃して
       きた場合、こちらは後方右、或は左斜めに化する。

   其の二:相手の勁が向かう方向(勁勢)に黏随(くっついて随う)
して、
       引進落空する。 
       具体的方法としては、相手の勁勢に合わせ及び、勁の方向に従い、
       こちらの勁を過不足なく用いて引進落空する。

   この勁を用いる鍵は、腰を軸とすることにある。
   左、あるいは右に腰を転じることにより、" 化 " の有効範囲を大きくすること
   ができ、引進落空を可能にし、或は、四両撥千斤の境地に達することができる。


翻訳:太極武藝館 編集部 
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 次に、これまでに日本の中国武術界で「化勁」がどのように説明されて来たのか、具体的に例を挙げてみよう。

 例えば、様々な太極拳の専門書を見てみると、化勁とは、

   「相手の力を躱したり流したりする勁を、一般的に化勁という」
   「敵の攻撃を受け流す事を "化" といい、受け流す能力を "化勁" という」


・・などと、以外に素っ気なく、至って簡単に、単純に外側だけ解説されているものがほとんどであり、「化勁理論」などが書かれているものは皆無に等しいと言っても良く、中には「巻き付けやその他」などとアッサリ書かれていたりするものまである。

 しかし、なかには良心的に、太極拳の「理論」を丁寧に解説している本もあった。
そこには「黏化勁」と「走化勁」がある程度きちんと説明されていたが、

   「心身の機敏性を保ちながら放鬆して、相手にぴたりとくっついて、
    常に自分が順勢であるように姿勢を調整し、侵攻して来た相手から
    這々の態で逃げるのではなく、切っ先を避けてその隙を探す・・・」

・・・とか、
   「孫子の兵法が教える、その鋭気を避けてその惰帰を撃つ、という
    態勢で、主体性を失ってはいない・・」


・・などという表現で書かれており、おそらく著者は「化勁」をきちんと理解しておられる筈だが、この説明で化勁が何のコトだか分かってしまう読者なら、何もわざわざこれを読まなくてもよさそうなものだ、と思えなくもない。読者としてはその先をもう少し詳しく知りたいところであろう。

 次に、中華武術オタクならずともワクワクするような、書店の店頭で購買意欲をそそられるタイトルがつけられた、雑誌などの『化勁特集』などを見てみると、

 化勁とは「発勁する前の段階」で、相手の体勢を崩す「崩し」が化勁である。
 ・・また、化勁は「粘勁」と「走勁」から成り、
  「相手の攻撃を探るレーダーのようなもので、相手の攻撃をかわすもの」であり、
  「右から攻めて来たら、走勁で、逆らわないように自分の体を左方向に、
   
相手の攻撃と同じ勢いで動かすこと」などが化勁の実際である、
・・・などと書かれている。

 しかし、いずれの説明も、実際にドウナルからコウスル、という、明快で具体的な説明がされているものは無く、読者にしてみれば『だからそれは、具体的に、どうすることなのか?』という疑問に満ちることになる。読者は常に「その先が知りたい!」のではなかろうか。

 また、著名な武術研究家や、中国拳法の権威といわれるような人たちが「化勁」についてどのような見解を持っているのかと、興味津津で日米の資料を漁ってみると、

  「相手の力を受け流したり、躱したり、あるいは吸収してしまう方法などを用いて
   無力化してしまうことを言い、これらの方法を総称して化勁という」

  「化勁の各法は、呼吸、身体における開合、呑吐と強調していて、
   化を行う時には蓄勁になり、然る後に勁を発して相手を打つ」


・・などと、教科書的、中国武術大辞典的な立派な解説がされてはいるが、やはり他の著者と同じく、肝心な、具体的な説明などは為されていなかった。
 これは欧米で出版されている洋書や専門雑誌まで含めてのことである。


化勁のメカニズム


 それでは、実際には「化勁」がどのようなメカニズムになっているのかを、ここで具体的に、できるだけ簡明に説明してみようと思う。

 まず、「化勁」とは、単純に相手のチカラを "捌く" ことではない。
 単に武術の闘いとして捌くだけなら、カラテでもプロレスでもスモウでも捌くだろうが、太極拳のそれは、そこに武術的に高度な原理が存在している。

 例えば、相手が 100 のチカラで来た時に、こちらが同じ 100 のチカラで受けてしまうと、そのチカラはお互いにぶつかりあってしまう。
 そして、そのような「ぶつかり合うチカラ」は、太極拳ならずとも、どの武術でも武術性の低い、低級なものとされ、子供のケンカに等しいものとして蔑まれることはご存じの通りである。

 かといって、こちらが 80 や 60 のチカラで受けてしまうと、相手のチカラに負けてしまい、相手の攻撃は有利な展開となってしまうし、反対に、負けじと 120 のチカラで受けると、相手は差し引きたったの 20 しか影響を受けない。
 或いはまた、「円の動き」などと言って、そのチカラに対して単にコロリと転がし、いなすことができたとしても、こちらの被害はうまく回避できても、ちょっと円く受け流したくらいでは、相手には何の影響もないことは、皆さんよくご存じであろう。
 特に、相手がキングコングのような人の場合は、そんなものではまったく効果が無い。

 では、高級武術の「化勁」ではどうするのかというと、相手の 100 というチカラに対して、まず、相手の力に合わせて「マイナス 100 というチカラ」を用いて受けるのである。
 これは、先に挙げたような例にある、相手の攻撃と同じ勢いで動かすような類いのものではなく、また、誤解され易いのだが、「マイナス 100 で受ける」わけでもない。

 さて、これで相手の攻撃は、実質0、ゼロ、つまり "無効" になった。
しかし、相手のチカラをゼロにしただけでは「高級武術」にはならない。
つまり、このゼロは、「単なるゼロのチカラ」ではイケナイのである。

 では、どうするのかというと、実は、その「マイナス 100 」というチカラは、相手の「プラス 100 」というチカラを受け取っている間に、同時にそのチカラを自分の内部、つまり、相手から見てプラス方向に蓄える仕事をしているチカラなのである。
・・・これを「蓄勁」という。

 したがって、その作業が完成した時には、自分に向かって来た相手の「プラス 100 」というチカラと、それを処理するために同じ量だけマイナス方向に使った「マイナス 100 」というチカラが同じ方向で合わさり、最低でも合計 200 というチカラになって、蓄えられている事になる。

 そこで、最後にその「蓄えられた 200 」のチカラを相手に返す。
つまり、相手にしてみれば、最低でも2倍の力が返って来たことになる。
  これが、「化勁」から「蓄勁」、そして「発勁」へのプロセスである。

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 こう長々と説明して書くと、「化勁」は、ずいぶん悠長な技法で、本物の太極拳を目にした事のない人は、そんなものが実戦に使えるはずがない、空理空論だ、と思われるかもしれないが、さにあらず、実際にはこれが瞬時に行われ、また瞬時に行われることが可能となる訓練体系を消化して行くのである。

 相手は、こちらの動きが非常に小さく柔らかい故に、相手のチカラを蓄えているという「仕事」にまったく気が付かない。そのために、飛ばされていく相手は非常に不思議そうに顔をゆがめたり、青天のヘキレキのように、大声を発しながら転がされ、宙を舞って飛ばされ、床や壁に激しく打ち付けられることになる。
(心底驚いてもいないのに、家庭も役職もある四十過ぎの男たちが、大勢の人たちの前で、そう簡単に大きな叫び声をあげられるものではない)

 この「化勁原理」は、文章として表現されるものと実際に行うものとでは視覚的、感覚的に大違いであり、このような理論を述べたところで、誰もが「化勁」が出来るようになるわけではないし、そのすべてが文章で表現され得るものでもない。

 「化勁」に限らず、どのような武術原理でも、正しい基本から始めて、これが瞬時に行えるような正しい練功を積んでいく事によってのみ、本当の「原理」が理解できるようになる。
 そして、そのような正しい練功は、実はすべて「非日常」の原理で出来ている。
 立つ、歩く、動く、まわる、踏む、挙げる、下げる・・・どのような動きも、「武術」としての太極拳においては、日常の動きとはまったく異なる原理でそれらが行われなければならない。

 「武術的な動き」とは、とりもなおさず『非日常的な動き』なのである。
 そして、その非日常的な動きを身に付けるための最も重要なポイントは、まず、自分の身体の日常的な動きを「否定」することにある。
 つまり、これまでの人生で慣れ親しんできた、「日常の身体の動かし方」を一度止めなければ、本当の武術としての動きは決して身に付かないのである。


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