太極武藝館




太極拳はどう戦うのか第四回
太極武藝館 館長 円 山 洋 玄


自律と他律と・・

強くなることとは、自律動作を確立する事であった。
相手より強力な攻撃力で防御を打ち破ったり、カウンターを取ったりして、
自分が戦闘時の支配権を得ようとするのだ。

しかし、太極拳は別の方法で支配権を得ようとする。
戦闘時には攻撃という自律動作を使用せず、相手に攻撃させる。
これを受け、崩し、攻めることによって勝負の支配権を得ようとする。

すなわち他律動作が初めにありき、であり、
自律動作と呼べるものは一切放棄してしまったのが太極拳だ。
太極拳とは、攻撃という自律動作を捨てることにより、相手を支配しようという武術なのだ。


 二年ほど前に読んだ「武術の構造(山田英司著・流星社)」という本には、このようなことが書かれていた。この本には『もしくは太極拳を実際に使うために』という魅力的なサブタイトルが付いており、さらに帯には「達人への階梯を科学化した極意書」「武術・格闘技の謎を全て解き明かす!」などと書かれており、心惹かれるままに購入した次第である。

 ここで言われる、自律・他律動作というのはもちろん著者の造語であろうが、長年に亘って真摯に研究をされたことが窺える独自の理論が展開されており、また独自に考案された推手訓練法まで同書の中で発表されていて、たいへん興味深くその本を読んだ。

 しかし、私たちの学習体系を顧みれば、


相手が攻撃を開始する以前から相手へのコントロールを始める。 

接触、非接触に係わらず、相手が攻撃を可能とする身体構造を極めて 限定的なものにする。

常に相手が攻撃をし難い状態に相手を置く。   

相手の攻撃が有効となる以前に、此方の反撃動作を終える。   

受け、崩し、攻め、などは、必ずしも接触することを前提としていない。



 等々、一言で云えば、相手の攻撃が発せられる以前から積極的に化勁を開始する・・とでも言おうか、それを可能とする方法や、それに伴う身体構造を習得していくことを目的とする、言わばひたすら「自律的」なものであった。

 私の学んだ太極拳では、先ずは相手に自由に攻撃させておいて、中段突きに対してはこう、前蹴りに対してはこう、ローキックはこんなふうに捌いて、貼り付いて化勁して、崩したらこうやって攻めに転じる、というような、相手の攻撃に対する、その時々の「他律動作による対処法」を戦闘の基本にしていない。
 そもそも「化勁」とは、決して防御専一のための戦闘技法ではないからである。

 太極拳とは、相手がどのように攻撃してこようが、「ただこう在ればよい」というものである、
と私は認識している。太極拳のありとあらゆる練功は、その「ただこう在ればよい」という事のために存在しているのであって、それ故に、太極拳としての「在り方」の功さえ積み重ねていけば誰もがそれを修得できる、と私は教えられてきた。太極拳に、基本功と套路の訓練法がこれほど精密な内容で発達してきたのは、それ故のことでもあると思う。

 しかしながら、それは、決して相手に好き勝手に攻撃をさせた上で・・という事ではない。
 実は、太極拳にはそれ以前にやるべきことが沢山あるのである。そして、本来それを差し置いては化勁も何も有り得ず、結局のところは凡庸な戦い方とそれほど差異は無くなってしまう事になる。

 自律という言葉を借りれば、私たちにとっての太極拳は「自律動作の権化」であると言うことになろうか。  太極拳を「他律こそ主である」と考える方たちは、その根拠を『後発先至』や『捨己従人』などの要訣に求めて居られるのかもしれないが、もしそうであるなら、抑々それらの要訣の解釈自体が私たちとは根本的に異なっているのかもしれない。


 ともあれ、太極拳に限らず、本来どのような伝統武術の門派にも、その戦い方のための訓練方法が学習体系として存在しているはずである。したがって、先述したようなフルコン系格闘技の組手やスポーツ太極拳の推手競技、フルコン・ルールから発想した散打大会、あるいはまた外家拳の戦闘法から発想されたイメージをその前提に持っていると、実際の太極拳の「戦い方」は全く理解し難くなってしまう。

 私のところに入門して来る、スポーツ格闘技や外家拳、表演套路や推手試合に偏った中国武術などを長く修練して来た人たちが、「太極拳を実際に使うための」戦い方を身に付けるのに非常に苦労するところは、正にこのところである。

 先ずは「考え方」を変えなければ、本来の太極拳の「戦い方」は決して修得できない。
 では、どう考えればよいのか・・・  

 そのささやかな例のひとつとして、「間合い」を取り上げてみたい。


「間合い」ということ  


「間合い」は、古今東西どのような武術でも、実戦に於ける最も大切な要素のひとつであろう。

柳生石舟斉宗厳は、その修業時代に奈良の宝蔵院で新陰流を大成した上泉伊勢守信綱と立ち会い、信綱の高度な武藝にどのように立ち向かっても敵わず、その場で伏して入門を乞うが、その後『無刀之太刀如何』という課題を信綱より授けられ、宗厳はその工夫に心血を注ぎ、翌年、遂にそれを解いて新陰流の印可を得た。  世に言う、「柳生新陰流」の誕生である。

柳生宗厳より直伝を継ぎ、後に将軍家指南役となった五男の宗矩は、その著書「兵法家伝書」の中で、

敵とわが身の間、何ほどあれば、太刀があたらぬと云ふ事をつもりしる也。
あたらぬつもりをよく知れば、敵の打つ太刀におそれず、
身にあたる時は、あたる分別のはたらきあり。


 ・・と、記している。

 これは禅の公案にも似て、ひとつの道を極めた達人が遺した意味深い言葉であり、それを現代に継承する立場の方々が居られることでもあるので、私の如き門外漢がそれを半解に解説することは真に憚られるべきことであるが、ここでは敢えて研究の題材として取り上げさせて頂こうと思う。

 一見すると、この『敵とわが身の間、何ほどあれば』という『 間(ま)』とは、まず単純に「距離」のことだと思えてしまう。実際、現代語訳にもそのように解説されている場合がほとんどである。
 しかし、私にはどうしてもそのようには思えず、私なりに研究を重ねてきたが、太極拳を学んで二十年を経た頃であっただろうか、この『何ほどあれば』という言葉の意味が、ようやく愚鈍な私にも朧気ながらに解けてきたように思えたことがあった。それは信州の寒村に暮らして十年が過ぎた頃、恥ずかしながら既に不惑の四十を目前にした頃であった。

 「間合い」で最も勘違いし易いのは、それが相手との「距離」を測ることであると単純に解釈するために、攻防に最も有効的であると思われる「距離」によって自分の動きが制限されてしまうことであろう。
 そのような場合には、日常的な構造で身体を動かしているために動きが単純になり、身体の変化が非常に困難になってしまう。
 日本の武術では、これを「居着き」と呼んでいる。
 居着きについての考察は、私どものホームページにある「ドクター・バディ」の『居着きを科学する』を是非ご参照頂きたいが、武術としての非日常的な身体構造が分からなければ、本当の意味での有効な間合いは取れないし、戦闘中の身体は、たとえどれほど足が動いていても、実際には居着き続けてしまっていることになる。

 ・・余談ながら、私はこの「居着き」という言葉を太極拳の指導に用いることに何の抵抗も感じていない。
 「居着き」は、確かに日本の武術でよく用いられる言葉ではあるが、「居着く」という言葉はどの辞典にも載っている、言わばごく普通の日本語であり、その意とするところも同じである。
 また、ホームページの『太極拳を科学する』で解説しているように、「居着き」に武術的な定義をすれば、

【 ある状態から違う状態への、変化のしにくさを表す指数 】


 ・・とすることができる。
 つまり「居着き」という言葉が日本の武術で用いられているからといって、その意味するところが中国武術には通用しないと言うことにはならず、むしろ高度な武術原理に於いては、そのような考え方が存在しないことの方がよほど不思議であると思える。

 また、武術の原理は古今東西に様々なものが存在しているが、人間が武術的に陥るところの「誤った動き」や「変化のしにくさ」などが、民族や時代によってそれほど大きな差異があるとは思えない。日本古武術の源流の多くは大陸に存在していたはずであるし、どちらが先かは分からないが、陳氏太極拳とそっくりの基本功がコサックの民族に存在していたり、ロシアのバレエやシステマの練習法にもそれが見られたりするのだから。
 私は、それが日本の武術用語として用いられているから云々と言うよりも、むしろ「居着く」という日本語によって、日本人学習者がより容易に、また明確にイメージし得る感覚を積極的に利用したいと思っている。

 それよりも、誰もがよく知る武術用語の「意味の誤り」を正していく事の方がもっと大切なことではないかとも思う。「単鞭」をタンベン、「下歩跨虎」をゲホココなどと、些か可笑しな読みを充てることにはまだ我慢できるとしても、最も重要とされるべき中国武術のテクニカル・タームへの誤った認識や誤った解釈は、武術家にとって「双重の病」以前の、かなり深刻な「病」ではないだろうか。  

 「脱力」などという、そもそも中国語にすら存在しない概念がいつの間にか太極拳の極意とされていたり、それを最も重要な要訣のひとつである「放鬆」と混同するような大きな誤りについては、既にホームページでも述べさせて頂いたが、そのような解釈の中には「門派としての解釈の違い」どころではない、他民族の言語である中国語を翻訳する際の、初歩的な言語解釈の誤りさえ見受けられるのである。  

 ・・・閑話休題。
 話を「間合い」に戻そう。  

 武術に於ける「間合い」とは、常に活きて変化し続ける「構造の妙」に他ならない。
 しかし残念なことに、武術の奥妙を目指して、たとえ十年二十年と長い年月を修行に充ててきた人たちでも、単純極まる間合いの中で動き、そのような「居着き」を全く自覚できない人が多く見受けられる。
 それは、先に述べた「間合い=敵との距離」という単純な考え方の中で練習をしてしまっているが故であり、まだ実戦のための「活きた間合い」、即ち「構造の妙」というものを知らぬままでいる故であると思う。

 素早く巧みなフットワークや捌き方を維持して動いていれば相手の攻撃を躱すことが出来、常に攻防に優位なポジション、つまり有効な間合いを取れる・・と思っている人は多い。実際、長年フルコン空手や格闘競技、実戦色の強い中国拳法などを学んできた入門者に散手をやらせてみると、ほとんどそのようにしながら相手を捕らえようとする。
 そこでは攻撃を巧みにヒットさせるための自分の動きの工夫や、相手を捕らえてから崩したり投げたりするということこそが「技術」になっていて、相手を捕えるまでの、相手と自分の間に存在する「時間と空間の制御」を行うなどという発想は何も存在していないことが分かる。

 「時間と空間の制御」などと書くと、またしても太極拳は古くさい想念に浸っていると思われる向きもあろうが、故きを温ねるのは学びの鉄則であり、それを温ねて理解さえすれば、決してそれが「故いだけ」のものではないことが分かるはずである。それは、西洋運動理論を取り入れた近代的な中国武術やスポーツ武道の考え方には有り得なくとも、頑なに古の原理を守っている伝統武術には、そのような「術理」が当たり前のこととして確立されている。

 例えば、上述の柳生新陰流には、相手が構えたものに対して、それに勝つ事の出来る「構え」が存在し、絶対的に勝利を修めることのできる「構え」を、相手を観て「造っていく」ものとされている。


 勿論、ここで言う「構え」とは、相手との関係性に於ける「構造」のことであって、スポーツ武道における「上段の構え」などと同次元のものではない。この「構え」こそは、時間と空間の制御を可能とする「間合い」のことであり、「敵とわが身の間を何ほど」に在らしめるかという、純然たる武藝の技術に他ならないのである。
 実際に、柳生新陰流の動きを拝見すると、その「早さ」に驚かされる。それは、時速何キロという速さではなく、私たちが求めて止まない「ゆっくりに見えても武術的に早い」という原理が確立されている故であろう。

 よく語られる『自分からは近く、相手からは遠い間合い』などというものも、実はその「時間と空間の制御」によってこそ、初めて為され得るものである。  先の「自律」という言葉を借りれば、間合いの本質が「自律動作としての空間の制御」であるということを正しく理解できなければ、反対に、相手は簡単に自分の居所を捕え、その場所に攻撃をし続けることが出来る。
 つまり、そうなったらいくら上手に防御をしても、自分はもっと居着かされ、結局は相手が優勢となるばかりであり、他律されてから自律動作を始めても、もう遅いということになる。
 初めから「自律」でなければならない、という意味はそこにある。

 よく見かける、まるで武術とは思えないような、次の動きが明らかに予測される居着ききったフットワークをするものなどは、おそらく西洋式のフットワークを取り入れているのだろうが、中国武術や伝統沖縄空手の「歩法」とキックボクシングの西洋式フットワークとは全く異なっているので、それらは厳密に言えば中国武術でもなければ空手にもなっていない事になる。

 かつて沖縄本部流(もとぶりゅう)唐手の本部朝基氏は、六十歳を超えた年齢にも拘わらず、当時「拳聖」と讃えられた47連勝中のボクシングチャンピオン、ピストン堀口に対し、乞われるままに褞袍(ドテラ)を着たままで相手をしたが、堀口がいくら打っていっても全く掠りもせず、最後には静かに眉間への寸止めの一撃を示して、『駄目だ、全く歯が立たない。参りました・・』と堀口に言わしめたという。
 更に、数年前に逝去された同じ本部流の十二代宗家・上原清吉氏も、九十六歳の時に元WBA世界ライトフライ級チャンピオン・渡嘉敷勝男を相手に立ち合い、ただの一発でダウンさせてしまったことは記憶に新しい。

 また、私事で恐縮であるが、かつて本部朝基に学んだ私の父は、ちょうど還暦を迎えた頃、私の目の前で四名の暴漢を相手に、日本手拭い一本だけであっという間に倒したことがある。
 家の五右衛門風呂が壊れ、近くの銭湯に父と通っていた頃の、ある日の帰路の出来事であったが、浴衣がけに下駄履きで、風呂桶を小脇に抱えた恰好での父の暴漢撃退のシーンは、ただゆっくりスタスタと数歩ばかり歩きながら、僅かに手拭いを二、三度、軽く振ったように見えただけのものであった。
 どのように使えばそれが可能となるのか・・・手拭いひとつで、暴漢たちは皆、見事に宙に舞わされ、あるいは銭湯の側の阪急の線路際まで弾き飛ばされていた。まだ幼かった私には、それ自体がとても人間業ではないように思えたが、その時の父の動きは、今でも鮮明に瞼に焼き付いている。

 ともあれ、そのような玄妙と思える「間合い」を可能にする秘伝の術理は、何も琉球本部流に限らず、大陸の高度な拳術に源流を持つものには、必ずその学習体系に組み込まれているはずである。
 しかし、たとえ上原先生の歩法をつぶさに観ても、そのような学習体系を持たない人にとっては、まるで老齢の師範に合わせて、弟子たちが遠慮がちに掛かって行っては斬られて見せるヤラセの映像のように思えてしまい、ただ頭から否定するか、或いは全く理解できないかの、どちらかになってしまう。

 このような学習体系を持たない系統の武術がそれを理解するには、身をもって体験する他はない。
いや、たとえ体験をしても、それを「学ぶ」ことを許されなければ、決して理解することは出来ないと思う。
 かつて私は、師より何度となくこれと全く同じ技術で翻弄され、どのように攻撃しても、武器を手にしてさえも、全く師の身体に触れることが出来なかった。
 師はその拳理を『自分で発見せよ』と言って決して教えようとはせず、愚鈍な私が苦労の末、ようやくその原理の片鱗を理解するに至るまでには、その後、実に二十余年に亘る歳月を必要としたものである。

 優れた資質を持つ若者たちが、流行のエンターテイメント性の高い格闘技や、様々な技法を総合的に取り入れた格闘技に憧れるのは、それはそれで結構なこととしても、そればかりに「武術の真髄」を求める傾向があるのは、様々な意味で非常に勿体ないことであると思う。


 太極拳の戦い方の特徴に「化勁」があるということはよく知られているが、上述の柳生新陰流には「活人刀(かつにんとう)」と呼ばれる、「人を活(うご)かすことによる刀法術理」の概念が存在している。
 これは純粋に刀術に於ける技法であるが、相手に逆らわず、またチカラで止めずに「人を活(うご)かし、制御する」という、太極拳の「化勁」に非常に近い考え方であると思える。
 なお、いわゆる「活人剣(かつにんけん)」すなわち「人を活(い)かす剣術」というものは、柳生宗矩が将軍家指南役となった以降の思想概念であり、ここで言う術理としての「活人刀」とは異なるものであろう。

 化勁とは言っても、高度な戦いはサッと相手に貼り付き、どのような攻撃も後発で制御してから発勁で吹っ飛ばす・・などというイメージで、どんな相手に対してもまず懐に入って密着しようとするような感覚を持っていると、ちょっと体重があってチカラも強い、殴り合いの経験が豊富な大柄な相手には、貼り付く前に押さえつけられて殴られたり、体重を利用した踏み込みのチカラで押し飛ばされてしまうかもしれない。
 たとえ貼り付けたとしても、相手は推手のように手をグルグルと回してはくれないので、反対に密着され、拘束して返される可能性も大いにあり、その日から伝統武術のチカラに疑問を持たざるを得ない。
 太極拳の戦い方を学ぶには、太極拳で戦ってきた「経験者」に教えを乞うのが一番てっとり早い。

 この「化勁」というのは、決して接触してから後に限られたものではない。
 『本場の太極拳は相撲のような戦い方であって、触れてから、組んでからでないと戦えない』などという説もあるが、然る拳譜にもきちんと『前打一丈不為遠』、つまり前に出て打つ場合の距離は1丈(10尺=約3m)でも遠い間合いには入らない、と記されており、戦う際には実際のところ相手と離れていようと接触していようと何ら差し支えがあるものではない。
 なお、拳譜のこのような記載によっても、太極拳が決して前述の「他律」に依拠した戦闘法ではないことが理解できる。一気に3メートルもの距離を前へ出て打つという状況は、「攻撃による自律動作」以外の何ものでもないはずである。


 すでにホームページで述べたように、化勁は相手のチカラをゼロ、つまり「無効化」するはたらきを含んでいる。どうやって無効にするのかは此処では申し上げられないが、ただ単に貼り付いてからゼロにするという方法ではない。

 化勁で間合いを取るというのは、まず「時間と空間を制御する」ことであり、非接触の空間に於いても相手のチカラを「無力化・無効化」し続ける、ということである。
 つまり、単に相手との距離を測って、その距離を利用して有利な展開をしようとするのではなく、
相手の存在を含めた空間をこちらの制禦下に置き、相手が攻撃をしてくる以前から化勁をはたらかせ、接触する以前に既に相手を制御出来ていることが「間合いを取ること」の大きな意味である。  

 そして、もしそうでなければ、どのような攻防も、実際には間に合わない。
 また、このような武術的な「間合い」を取ることによって得られる「制御」のパーセンテージが高ければ高いほど、その後の攻防でこちらが有利な展開になることは言うまでもない。
 このような事から、私たちのところでは、相手に攻撃させてから、それに接触して化勁をしているようでは「遅すぎる」とされている。

 化勁で取られた間合いが有効となり、それ故にこちらに有利な接触が可能になれば、そこから無理なく、また有利な状態で相手に貼り付くことが出来る。相手に貼り付く理由は、相手の動きを封じ、崩して、至近距離から様々な攻撃をすることが出来るからであるが、これは初心者にとってはなかなか難しい。

 現在の陳氏太極拳には余り見られないようだが、私どもの推手には一般的に知られる双推手のスタイルだけではなく、「打輪」と呼ばれる、向かい合った互いの右手と左手を各々塔手した状態で手を内転し合い、その中で自由に相手を攻撃・防御する訓練がある。この稿をお読み頂いている読者には「意拳」の双推手と同じ形であると言った方が分かりやすいかも知れない。

 このような練習の際には、初心者は必ずと言ってよいほど接触している相手の手をどかし、拘束して重さを加えて押さえ、その上で相手を攻撃しようとするが、上級者になるほど、生卵や半熟の茹で卵が潰れない程度の軽さで接触し、押さえつけることなく相手を拘束し、そのまま有効な攻撃をすることができる。
 先に述べたように、空間で相手を制御することが理解できれば、それ自体すでに化勁が効いているので、後はこちらが一方的にその中で相手に有効な攻撃が可能になり、それ故に、それを元にして貼り付いて一方的に技を仕掛けることが出来るのである。

 また、その双塔手のまま、手を回さず、攻撃側と防御側を決めて打ち合ってみると面白い。
 普通、そのような状況では、既に相手の手が触れているので、そのまま攻撃していってもすぐに制御されてしまい、なかなか相手に当たるものではない。しかし上級者が攻撃をすると、たとえ軽くユックリと攻撃しても不思議と相手に当たってしまう。
 これは、相手の防御が間に合わないほど打撃が素早いからではなく、相手がきちんと防御の動作をしていても、その行為自体が無効になってしまうために、結局当たってしまうのである。
 また反対に、上級者が防御側となって正しく防御をすれば、下級者の攻撃は全く当たらず、打とうとすれば身体を崩しながらあらぬ方向に拳を突かせられることになり、自分の突こうとする力が強ければ強いほど、激しく崩れ落ちたり飛ばされたりしてしまう。

 この「相手に貼り付いて封じること」というのは、トリモチを付けたようにベトベトに相手を不自由にさせることではなく、言わば相手を球の上に立たせてしまうような感覚に近い。たとえサーカスのベテラン団員でも、玉乗りのボールの上に立ったまま自由に戦える人は、それほど居ないに違いない。

 ただし、こちらが「居着いた身体」になっていると、それはまったく巧くいかない。
 太極拳の全ての技法や戦闘法は、居着かずに立って動ける基本的な「身体構造」を修得していることが前提となっており、まずは基本功で正しく「太極拳の身体」が作られていなくては、たとえそのような「戦い方」をどれほど教えても、何ひとつ理解できないのである。


「散手」という学習体系 


 太極武藝館では、ある程度基本が出来た段階でも、自由に激しく殴り合うようなスタイルの散手をやらせていない。特に初学の内から直接的なダメージを求める打ち合いをすることは、見た目にはいかにも「実戦的」に見えるが、実はそれほど実戦に有効な練習にはならず、私自身もまた、そのようにして段階的に戦い方の実際を学ばされてきた。

 「実際に戦えること」というのは、徹底した基本の訓練によって得られた武術的な身体構造、即ち「立つこと・動けること」の基礎練功の積み重ねの上にあるものだと、私は思っている。
 まだ基本を充分に理解していないうちから、自由にダメージを与える殴り合いをさせることを繰り返しても、それがいつしか自然に実戦が理解できることに発展するなどとは、私には到底思えない。
 個人の「イメージ」や「好み」で戦闘を捉えさせてしまうような教え方や稽古法には、自ずと限界があると思えるのである。

太極拳では、

【 意を用いて力を用いず、意が至れば氣が動き、氣が至れば勁が動く 】


 ・・という訓練を、ひたすら積み重ねていく。

 「氣」に関しては、また改めて何処かで書かせて頂くこともあろうが、私自身は稽古を指導する際に「氣」という言葉を全くと言って良いほど使ったことがない。よく、見学者の方々には、ここの稽古が想像していたものと大きく違って、科学的、実際的な訓練と理論ばかりで驚いた、などと言われることも少なくない。

 また『ホームページの写真は、氣で吹っ飛ばしているのですか?』などと訊かれることもあるが、
私自身は、「氣」はそれ自体がチカラとして使われるものではなく、あくまでも「勁」を動かすためにそれが用いられるものと解釈している。つまり上述の「用意不用力」を理解できれば、自ずと「氣」が動かされ、その結果「勁」がはたらき始めることになるのである。

 太極拳では、力んだチカラを用いず、「意」を用いる訓練を重ねる事によってこそ、
『太極拳の勁力=太極勁』という独自のチカラを得ることが出来る。
 この「太極勁」が習得できなければ強引にチカラで対抗するしかないが、太極拳では「意」からもたらされたチカラではない「拙力」で戦うことを、横気(強引な)血気と呼んで厳しく戒められる。

この「太極勁」を身に付ければ、

『相手は、まるで球の上に立っているかのように、無闇には身体を動かせなくなり、
足を踏み出せば身体がよろけ、打とうとすれば身体が捻れ、
拳は有らぬ方向に空を切るようになる』


・・と、拳経にも記されている通り、相手と激しくぶつかり合って殴り合う必要がなくなってくる。しかも、これは接触している時に限られたことではない。

 武術はスポーツ競技の戦い方とは異なるので、例えば「今日の稽古では三発殴られたが、五発打ち返した」というような考え方は全く存在し得ない。
 それは「ナイフで三回刺されたが、五回刺し返した」とか「銃で三発撃たれたが、五発撃ち返せた」などということが実戦では有り得ないのと同じであって、そもそも武術にはそのような発想自体が存在していないのである。それは正しくスポーツの世界での発想と言える。

 私たちにとって散手とは、あくまでも太極拳の原理に基づく、独自の「戦闘の方法」を理解することを目的としている。散手訓練では幾つもの段階を経た後に自由に打ち合うことも行われるが、その際にも力を込めて相手に強いダメージを与えるような打ち合いは敢えて行っていない。道場には面や胴などのプロテクターやグローブも揃えてあるが、特にこの数年はめっきり使わなくなってしまった。

 そもそも、自分が打った打撃が相手に「効く」とか「効かない」という事などは、正しく基本をこなしてさえいれば、たとえ相手を強く打たなくとも、自ずと分かるものである。  強く打ち合えば、相手を傷つけたり倒したりするだけの練習となってしまい、理解することよりも恐怖や怒りなどの感情の方が大きくなる場合もある。そして、もしそうなってしまったら、深遠な原理も、高度な学習体系も何もあったものではない。

 しかし、どうしても、人間を相手に打撃力の効果を試したいのであれば、激しい殴り合いの組手をする前に、まずはシンプルな「排打功(はいだこう)」を試してみればよいと思う。
 方法は至って簡単で、向かい合って立ち、お互いの腹を同時に打ち合う。
・・ただそれだけのことである。
 「一、二の、三!」で打ち合っても良いし、フライングでも、後出しでも、まあ、構わず好きに打てばよい。 これは、特に強く打つ必要もない。どれほど軽く打っても、効くものは効いてしまうから不思議である。

 私は若い頃に、散々これをやらされたものであったが、現在も時折、道場で若い人に試すこともある。
 本当に相手に効く打撃力を修得していれば、たとえごく軽く打っただけでも、相手はその場でグッタリと踞ってしまったり、怖がって二度とその練習をやりたがらなくなってしまう。

 実戦的な門派で活躍してきたような人が、多くの門人たちが見ている前で、恥も外聞もなく、初めの一発だけで本能的に柱の陰に隠れて出てこなくなったこともあったし、胃液を吐いてしまって、怖がって二発目以降を敬遠し、二度とこの練功をやりたくない、と宣言したケースもあった。
 これらは、いずれも軽く打った場合のことであるが、反対に、何度打ち合ってもお互いに耐えていられるような内容の打撃であるのなら、散手で力を込めた殴り合いの練習をしてもあまり意味は無いと思う。


 序でながら、時おり雑誌などで衝撃力の比較が特集されるが、武術の訓練で得られる「打撃力」は、必ずしも機械で計測できるものであるとは限らない、ということを申し上げておきたい。

 私の学んだ太極拳には空手のような「試割り」の訓練は存在していないが、陳氏拳を学んだとされる人の中には、ぶら下げた新聞紙を何枚打ち抜き、瓦やレンガを幾つ粉砕する、などというような事を発勁のチカラとされる人も居られるようである。
 それはそれで驚異的な事なのだろうし、私自身、若い頃には見様見真似の「試割り」に興じたこともあったが、同じ打撃力であっても、水に濡れた一枚の薄紙を相手の腹や掌に着け、それに拳や手を密着して打っても、濡れた紙が破けないまま相手がその場で悶絶したり、派手に吹っ飛んでしまうような種類の「打撃力」もまた、太極拳には存在しているのである。
 軽く打っては、瓦や煉瓦は割れてくれない。先の「排打功」で軽く打たれて悶絶した他門出身の猛者たちは、そのような種類の打撃力を腹に受けたことになるだろうか。
 そのような太極拳の「打撃」のメカニズムについては、いずれホームページの『太極拳を科学する』などで詳しくお話しする機会があればと思っている。

 「実戦的」と称されるような日本武道・中国武術の門派から私のところに入門して来る人たちは、ほぼ例外なく「強いチカラ」を使いたがる傾向がある。推手では相手を強く押さえつけ、散手では強く打ちたがり、強さで受け、強さで押し、重さで相手を拘束し、そのような強さを体軸であると錯覚して、チカラで打ち、転がし、飛ばそうとしたがるのである。
 しかし、私は「柔」のチカラや「軽」のチカラを使えなくては、結局のところはシャモの蹴り合い、ウシの押し合いになると教えられ、そうならないための繊細な散手の訓練を学習してきた。

 そして、てっきりそれは太極拳の専売特許だと思っていたら、意外や、私の海外の友人である元特殊部隊の出身者や、PSC(Private Security Contractor)の面々も全くの同意見であり、近似した学習体系まで存在して、ちょっと驚かされたことがある。
 文字通り命を賭ける戦場での闘いのために、想像を絶する厳しい白兵戦の訓練を続けてきた彼らは、さぞかし激しい殴り合いを練習するのだろうと勝手に予想していたが、それは全く外れてしまった。
 彼らは、私が示した太極拳の散手の訓練体系が、上述の意味に於いて非常に彼らのものと近似しており、その「戦い方」は極めて実戦的であると言って高く評価してくれた。陳氏太極拳の高度な「戦い方」には心から敬意を表する、と何度も繰り返して言ってくれたものである。

  因みに、彼らが行っている格闘訓練は、


(1)ノー・コンタクト(非接触での訓練)  
(2)スキン・コンタクト(軽く触れる程度に打ち合う訓練)  
(3)セミ・コンタクト(打撃部分を限定しての訓練)  
(4)ライト・コンタクト(グローブ使用・ノックアウト不可)  
(5)フル・コンタクト(グローブと防具を使用・ノックアウト可)


 ・・など、最低でもこれら五つの段階に分けて練習をしており、特に最後のフルコンタクトでの練習は実際には滅多に行われることはない。このような格闘訓練はパートナーを「倒すため」のものではなく、あくまでも実戦での「感覚を磨くため」の訓練で無ければならない、と彼らは強調していた。
 また、これは現役兵士の訓練に於いても全く同じであるという。

 但し、この「非接触」や「軽く触れる程度」の訓練は、その内容が「高度な訓練」として確立されていなくてはならない。本当は思い切り打ちたいところを、ただ単に手先で軽く触れるように練習していても、それは決して高度な訓練にはならない。

 なお、彼らはフルコンタクト形式の試合などに出場する意志がまったく無い。
 試合に出れば勝ちたくなるのは人情であるし、勝つためには、結局そのルールの中で勝つことを目指すようになるので、実戦の感覚が著しく鈍る。それでは「仕事」にならない、と言うのである。  

 空手に「約束組手」があるように、太極拳には様々な推手や散手が存在する。
 私が学んだ推手には、既に現在の陳家溝では学習課題から失われているものも多く、また、それだけでも充分に太極拳の戦闘法が理解できる内容のものが多いが、散手は推手での経験をさらに発展させていき、太極拳の原理がどのように実際の戦闘に使われるのかを順を追って経験させ習得させることのできる、大変重要な練習方法である。

 それは、実戦の「用法」として訓練されるものではない。
 それは「相手がこう突いてきた時にはこう捌いて反撃する」とか「こう来たら相手の懐に入って封じて打つ」などといった訓練方法ではなく、「立ち方」に始まる基本の延長として、そのまま実戦に使われるための高度な武術原理を習得するための緻密な練習法として確立され、学習体系の中に大きなウエイトを占めて存在しているものである。

 太極拳は「腕相撲」のように、同じテーブルの上で相手と同じように力を込めて腕を倒し合うことで勝敗を決めるような武術ではないし、ましてや同じ戦闘法の中で、同じ拳、同じ蹴りを使って、同じ条件の決められたルールの中で何れが強いかを競い合うようなタイプのスポーツ格闘技術でもない。

 喩えれば、太極拳の「戦い方」は、ある意味に於いて、テニスコートの「広さ」に似ている。
 初めてテニスコートに立った人は、そこが、ただ二人ばかりの人間がボールを打ち合うには、いささか広い空間に感じられるに違いない。そして、いざボールを打ち合ってみると、その「広さ」は益々、否応なしに実感されることになる。
 此方の隅でボールを受けたまではよかったが、次に相手は全く反対側の隅にボールを打ってくるかも知れず、そうなると、こちらはコートの端から端まで、ボールを拾うために必死に走り回っていなくてはならない。
 そして、そのような状況から相手に的確にボールを打ち返したり、相手がそれを受けにくいように返すということは、なかなか至難の業に思える。
 このように、テニスでは、コートの「広さ」自体がボールを打つ技術と深く関わっている。

 私たちの「武術」は、ある意味で、このテニスコートの「広さ」に似ていると思う。
 もちろん、ボールを的確に打つ技術は磨かなくてはならないが、それ以上に、もし相手側のコートの「広さ」をこちらが自由にコントロールするようなことが出来たら、それを常に自由にコントロールされているような状況に相手を陥らせることができたら、きっと相手は、ボールを的確に打つ技術以前に『全く勝負にならない』と思うに違いない。

 こうなると、相手はボールを打ち返すどころではなく、今度は彼がひたすら走り回る番になるからである。

上述の「拳経」に、

『相手は、まるで球の上に立っているかのように、無闇には身体を動かせなくなり、
足を踏み出せば身体がよろけ、打とうとすれば身体が捻れ、拳は有らぬ方向に空を切るようになる』


 ・・と書かれているのは、そのような意味によるものであろう。


Tai-Ji Code


 では、どうすれば、そのような「太極拳の戦い方」を学習していけるのか・・・

 それは、取りも直さず、心構え、即ちこの道に入門するための「正しい意識」を持つことに始まり、武術としての身体構造のための「正しい基礎」を造る緻密な練功である、柔功、站椿功、深く原理に関わる纏絲勁の基本功、歩法、内功、套路、推手、対練、散手・・等々と、順を追って、太極門の学習体系を「正しく学ぶ」以外に方法はない。

 初めに述べたように、太極拳の戦い方とは、これら「基本」で学ぶ処の内容そのものなのである。
 そして、それ以外には何も存在しないということが解らなければ、太極拳の本当の戦い方は見えてこない。
 源泉は「基本」にこそ存在している。まずは敬って基本を尋ね、心して基本を研究することで、深遠なる武功の術理を理解しようとすることこそが、最も大切なことであると思う。

 文革以来の現代中国に於いては、源流の陳氏太極拳ひとつを取っても、長年、継承者に秘密裏に伝えられて来た『三三拳譜』のような、単に陳氏のみならず武林全体にとっても極めて重要な資料である秘伝書を始め、多くの貴重な練功の内容が急速に失伝されつつあるのが現状であり、未確認ではあるが、当の『三三拳譜』などは、もはや本家の陳家溝でさえ、それを所有保管する者が誰ひとり存在しないという、いささかショッキングな情報もある。本家の陳家溝にその写本すら存在しない可能性があるという状況は、一体何を物語っているのだろうか・・・

 因みに、『三三拳譜』の全文を所有する者は世界でも十指を数えるばかりであると言われ、部分的な複製を所有する者を入れても、わずか十数人程度に過ぎない。日本では、名の知られた研究家でさえ、それを目にしたことが無いと言われるので、現在それを所有する人は皆無であろうと思われる。

 私たち太極武藝館は、縁あってこの『三三拳譜』の全文を所有している。
 そして現在、微力ながらもその内容を紐解き、門人たちの協力を得ながらその解読と研究を続けており、やがてその成果を何らかの形で発表したいと思っているが、本家本元の陳家にこそ、このような歴史的にも学術的にも優れた資料が保管され研究されることを乞い願い、貴重な武術文化遺産としても正しく後世に残していって頂きたいと心より願うばかりである。

 先にも述べたように、現在のような伝統拳術のスポーツ表演競技化推進政策によって生じる新興套路偏重の傾向は、長い時間の流れの中で、徐々に太極拳原理を学ぶための基本練功の質の低下を招くことになろう。
 そして、基本練功それ自体が脆弱になれば、必然的に套路動作は益々表面的なものにならざるを得ない。そのような悪循環をこの先十年、二十年と続けて行けば、終には太極拳の「武術としての中身」は何もかも失われてしまうに違いない。

 制定拳に限らず、競技化された套路や推手の隆盛ばかりを図っていては、即ち武術的原理の衰退に繋がることは火を見るよりも明らかなことであろう。たとえそれが真伝の伝統套路を基にしたものであれ、単に套路の一通りのカタチが広められ、それが遺されれば良いというわけではない。それを伝統武術の発展とは言い得ない。

 私たちは太極武藝館を開門した90年代の半ばから、太極拳の原理を "TAI-JI CODE" と呼び慣わしてきた。
 全てを内包すると言われる「套路」から拳理を解いて行くことは一見可能であり、また容易にも思えるが、それは言わば 、解読表( Code-Book )を持たぬ者が複雑な 暗号( Code )の秘密を解こうとするようなものであって、それに比べれば、初めから暗号制作者が作った解読表を以て読み解くことの方がよほど容易であり、またそれが極めて正確であることは誰にでも想像がつくものである。

 套路こそが全てであり、套路さえ在れば良しとする論もあるが、私はそうは思わない。
 何故なら、基本の体系から套路の意味を解いていくのは比較的容易ではあっても、反対に套路側から基本の根本原理を解読するのは、想うほど容易なことではないからである。
 また、套路自体は各人の「考え方」によってその運動原理を如何様にも解釈できてしまうが、
反対に、基本功に個人の勝手な解釈を入れることは殆ど不可能に近い。
 基本功で学ぶべき「太極拳の構造」とは、本来それほど緻密で、一点の歪みも無いものであり、
そこから始められなくては原理の欠片も理解できない故に、「基礎」とされているのである。

 套路それ自体を深く学ぶことは極めて重要なことであり、私たちも套路の訓練には多くの時間を充てている。 私たちにとっては、発勁などはどれほど公開しても良いとさえ思えるが、套路だけは、滅多なことでは外部の人に見せたくないと思えるほど重要なものである。

 套路こそは、真正な太極拳原理を示す「基本功」の精華であり、集大成であり、太極拳の構造が幾重にも重なり、深く隠された「動く秘伝書」なのであって、そうであるからこそ、各自のレベルに合わせた段階的な練法も可能となっている。しかし、如何なる天才が套路の側からそれを詳細に紐解いて行こうと「真正な基本原理」というコードブックなしには、「太極拳の構造」という奥妙を解読できる筈もない。

 その真正な基本原理さえあれば套路が必要ではない、と言うわけではない。
 套路自体を無用であるとするような極端な論についてはこの際措くとしても、套路の元となっている基本の拳理を「解読」できなければ、套路の重要性もまた、理解できるはずはないと思うのである。

 失われた基本原理の学習体系は、まだそれが細々と存在している間に、きちんと取り戻さなくてはならない。
 失われてしまった基本原理の構造と、その訓練法である基本功・・・
その学習体系にこそ、武術としての太極拳の、真の「戦い方」が隠されているのである。

 あたかも太極拳が、現在一般に公開されている僅かばかりの基本功と、文革以来の中国政府が容認する套路と推手技法だけで構成されているかのような錯覚を与えられ続けてきた人たちは、先ずは
「太極拳の構造」を正しく指し示す「基本の原理」にこそ立ち還らなくてはならないと思う。

 そうしなくては、武術としての「太極拳の戦い方」は、決して見えてこない。


(了)


*  *  *  *  *  *


【 あとがき 】


 『太極拳はどう戦うのか』を最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 多忙に追われ続け、心ならずもこの連載の原稿が大幅に遅れてしまいましたが、寸暇を割いて少しずつ書き溜めて行き、何とか最後まで書き上げることが出来ました。
 いまだ師の半ばにさえ功が至らぬ愚鈍非才の身には、本来はこのような稿の掲載さえ憚られるべきところですが、そのような拙稿でも楽しみに待っていて下さった方々に対し、感謝の念と共に、長らくお待たせしたことを心よりお詫び申し上げたいと思います。

 また、日頃よりホームページの内容を何度も繰り返してお読み下さったり、全文をコピーして練拳の研究資料にして下さっている方たちまで居られるということには、大変な喜びに思うと同時に、様々な意味で大きな責任も感じております。
 太極武藝館の門人たちと共に、今後ますます太極拳の研究と精進を重ねて参りたい所存ですので、どうぞ変わらぬご指導とご鞭撻を賜りますよう、誠心よりお願い申し上げる次第です。


 平成二十年 師走   先師の命日に

円 山 洋 玄



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