かつて太極拳を生み、育んだ土壌・・現在の中華人民共和国は、1949年以来、六十年間に亘って共産党政権による一党独裁の政治を続けている。
誰が国家主席になろうと、人民日報が報じた「団結友誼和平絵巻」・・つまり国際社会から見たところの「難癖だらけの北京オリンピック」を無理矢理やってしまおうと、中国の全体主義国家としての政治体制は、五星紅旗や、未だに人民元の紙幣を飾る毛沢東の如く殆ど何も変わってはいないし、今後もそう簡単に変わる気配もない。
その「変わっていない」ことを、私たちは決して忘れてはならないと思う。
中国武術を伝承する者、愛好する者は、かつてその同じ政治体制の中で、武術家をはじめ、知識人、芸術家、文化人たちがどのような目に逢ってきたのか、その同じ政治体制が現在どのように営まれているかを深く心に留めておくべきであろう。
現在の中国について語るべきことは山ほどあるが、この稿のテーマから外れる嫌いがあるので、中国の問題に関しては改めて他で詳しく述べる機会を持ちたい。
心に留め置くべきもうひとつのことは、その中国の政策に、常に太極拳が利用されてきたことである。
中国は「全体主義+中華思想」という明確な政治方針を持っているが、太極拳の存在は、その国家の対外的なひとつの顔、つまりパンダのように平和友好的な外面(そとづら)のひとつとして長い間利用され続け、神秘の気が身体を巡る「手軽な健身運動」として、老若男女の別なく楽しめる「典雅なスポーツ競技」として、国家を挙げて世界中に広められてきたという一面を持つ。
全体主義と中華思想を前面に出せば世界中から毛嫌いされ総スカンを食らうことは必至だが、かつての中国に存在した文化の深さや、西洋人が憧憬する東洋の神秘を強調して行けば、人々は先ずそこに惹かれ、徐々に中国それ自体を容認するようになる・・などという思惑であろうか。
その政策からは、国家がご丁寧に細部に手を入れて編集した武術(ウーシュー)太極拳のみならず、伝統武術を継承する正統な太極拳門派に対しても、同じ思惑によるコントロールが及んでいる。
しかし、あくまでも太極拳の武術性を廃し、スポーツ舞踊のように推進する必要があるのであれば、せめて先ずはそれを「太極運動」とか「新人民体操」とでも名称を改め、深遠なる伝統武藝文化とは全く別のものとして分類しなければならない。貴重な歴史的・武術的文化遺産である太極拳の「拳」や「武」の名を冠したままそれらを同次元に扱うことは、それこそ毛沢東以来、懲りずに改まることのない「重大な誤り」のひとつであろう。
そのような名ばかりの「武術」は、枯れた芝生も緑のペンキを塗れば青々として見えるという、彼ら独自の発想で扱われているのだろうか。しかし、白い馬に縞のペイントを施しても決してシマウマにはならないように、体操はどのように演じても体操でしかなく、目に見える武術の外側だけを西洋的な運動原理で代用しても、それが深遠なる伝統武術と同じものに成り得るはずもない。
文革以来の中国が、常に反共革命や反政府勢力の武力高揚を怖れ、武術家の魂を骨抜きにし、徹底的に武術文化を根絶やしにする目的のために作られた政策の果てとは言え、形骸化され、お仕着せの体操を余儀なくされ、手を交差して人を押し崩すばかりのゲームを余儀なくされている「太極拳」は、何とも哀しいものに思える。
そしてその政策は、文革後六十年を経た現在でも、密かに、そして強かに継続推進されている。
序でながら、政治目的で骨抜きにしようとしている矛先は何も「武術」に限ったことではないし、彼の国の「内部」だけに限られたことでもない。彼らの百年単位の周到な計画を見抜けず、相も変わらず自分の国の文化や歴史さえ否定しつつ、中国に媚を売り、ご機嫌を取り続ける政治家たちが幅を効かせているのは、哀しい哉、国際社会では日本くらいのものであろう。
ともあれ、「武術」は見せ物でもなければ、スポーツ競技でもない。
伝統武術と、武術のスタイルを借りた表演運動とは、厳密に分類されなくてはならない。
それらふたつのものは、文化も、拳を練る目的も、内容も、全く異なっているのである。
中国共産党政府は、武術(Wushu)をオリンピックの正式競技への参入に向けて盛んに世界にアピールし、IOCが呆れ返るほど強引な働きかけをして北京五輪で異例の《 特別競技 》として紹介されたが、昨年秋に報じられた『東方今報』によれば、「天下の武術、皆少林より出ず」とまで謳われる、彼の国が誇る少林寺では、『少林武術はスポーツに非ず』という理由により、開会式以外の北京オリンピックへの表演参加を明確に拒否していたという。
少林寺では『少林寺の武術は優れた文化遺産であり、禅の精神文化と武術文化の一体化を重視している。オリンピックのスポーツ競技とは全く概念が異なる』と、一貫して表明している。
まことに立派な態度であると思う。
余談ながら、私のイギリスやオーストラリアの門人や友人たちは、自分たちが学んでいるものは、
"Tai-Ji Quan" 或いは "Tai-JI Martial Art" と呼び、文革以来の表演太極拳や健康体操の類は "Tai-Chi" とか、"Tai-Chi Movement” などと自主的に呼び習わしており、本来「Tai-Ji」と書くものを「Tai-Chi」とスペルまで換えて、きちんと区別して用いている。
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