太極武藝館




太極拳はどう戦うのか第二回
太極武藝館 館長 円 山 洋 玄


どちらが強い・・?


 私は、格闘技と伝統武術のいずれが強いか弱いかを論じるつもりはない。
いや、そもそも誰が強い、何が強い、どちらが強い、というようなことに興味もない。

 この時代にあっての一般的な伝統武術の存在意義とは、物騒な世相に対応できる自衛手段という意味もあろうが、その真の価値は、家庭や教育が崩壊したためにすっかり失われ、過去の遺物となったように見える、個人が絶えず自省内観できる精神性と、人間性の高みへ向かって成長していける日々の修養・修練のシステムが、確かなものとして残されているということに他ならない。
 その根本を差し置いて、表面的な技巧だけを身に着けるための武術をどれほど追い求めようと、
そこで得られる「強さ」など、高の知れたものに過ぎないと思う。

 それに、強い弱いなどというのは、様々な意味において各々の個人的な問題であって、本人が追求する武術とは何の関係もない。小次郎と戦って武蔵が勝ったからといって二天一流は厳流より強いということにはならないように、戦いとは常に当事者個人の問題に過ぎず、各門派の武術理論の優劣の検証にはならないのである。

 大体、どちらが強いかと言う前に、向かい合った相手が自分よりも武術的に優れているかどうか、会ってひと目見て判らないようであれば武術家とは言えないであろう。そして、相手の力量が判るのであれば、その上何を求め、何を確かめるために戦わなければならないのだろうか。
 この世界では、自分よりも優れた相手には、挑むのではなく、先ず教えを乞うことが道理である。武術自体の深遠さをそのまま己の実力と錯覚し、未だ拙い力を彼方此方で試したくなるような精神状態では武術的な力量も養われる筈がなく、その武術自体の奥深さも、何も分かっていないということになろう。

 私は、太極拳は大変優れた武術であり、それを正しく伝えられた上、生涯をかけて学べることを誇りに思っているが、それが地上最強の闘争術であるなどとは全く考えたことがない。
 優れた武術、優れた闘争術はこの世界に数えきれぬほど在り、人知れず孤高の拳を磨く優れた武人は星の数ほども存在するのである。一体、何を以て己が信じ求めるものだけを唯一絶対などと断じることができるだろうか。

 門人たちはそんなことに全く興味を示さないが、希に門外の方から、太極拳と現今の武道格闘競技とはいずれが強いのか、どちらが武術的に本物なのか、などと訊ねられることもある。
 先に述べた如く、私はそのようなことには全く興味がないと申し上げると、では何を以て太極拳が高度な実戦武術だと言うのか、と怪訝な顔をされる。
 しかし、伝統武術と格闘技とは、その目的も訓練体系も、何もかもが異なっており、特に死命を制することを目的に工夫され発達してきた武術と、現代という時代背景の中で健全なスポーツ競技として、或いはビジネス興行として成り立っている格闘競技を、その理論や実戦性で比較するのは余りにも無理がある。

 ただ、強さの比較ではなく、それぞれの特徴を挙げることは出来る。
 今日の格闘競技は、各々がそれぞれのルールの中で優れた闘争技術を見せており、また、それぞれの歴史の中で追求され、完成されてきた立派な闘争術であると思う。しかし、どのような武術がそのベースにあろうと、一旦競技化されてしまったものは、それが故に必ず弱体化され、武術にとって最も大切なことを失ってしまう傾向にあることは否めない事実であろう。
 ルールが確立されたということは、競技者はそのルールの中で最高の動きが出来るように訓練を積んでいくということであり、純粋に武術・闘争術として見れば、それは非武術的なマイナスの行為に他ならない。伝統武術の真諦を継ぐ門派が格闘競技に興味を示さないのは、そのような理由も有るのである。

 例えば、柔道の試合では相手から「一本」を取らなければならないルールがある。
しかし、その「一本」は、必ずしも相手に決定的なダメージがあるわけではなく、きれいに背中から落ちてくれれば、たとえ相手にまったくダメージがなかろうとも「一本」になってしまう。
 つまり、柔道では相手のダメージ如何ではなく、技法が奇麗に決まるかどうかという「見た目」を最も優先して優劣が競われ、競技者はそのための練習に励まなければならない。そして、そのスタイルは町道場でも、オリンピック選手も、警察や自衛隊の訓練においても、基本的には全く同じものである。

 柔道と同じ「柔術」をルーツとする格闘技であっても、講道館創始期の天才・前田光世の戦闘理論を受け継ぐグレイシー柔術の学習体系は、相手に如何に「ダメージ」を与えるかということに徹している。
 彼らは寝技を得意とするが、柔道と異なるところは、柔道が相手を一定時間動けなくすることを目的にしているのに対し、そこからさらに締めたり、関節を決めたりすることにつないで行くことにあり、柔道では禁止されているグラウンド・ポジションでの関節攻撃をごく当たり前のこととして行うことである。
 グレイシー柔術には、明らかに講道館以前の時代に存在した、純粋な武術としての「柔術」の精神が受け継がれており、柔道が或る状況における格闘の形を競技にしたものであるなら、グレイシー柔術は自衛手段としての武術を競技にしたものと言えるかもしれない。コンデ・コマ=前田光世が自らの格闘術を「柔道」とは名乗らなかった理由はこの辺りにあるのだろうか。
 名実ともに一族の最高峰であるヒクソン・グレイシー氏は「my personal Bushidoh(武士道)」という言葉をよく用いる。嘉納治五郎以来、柔術は「体育」としての柔道となり、競技として愛され、世界中に広まっていったが、その精神は文字通り西洋スポーツマンシップが基本であり、現代日本では、ヒクソン氏のようなことを口にする柔道家はちょっと見当たらない。

 このように、柔道とグレイシー柔術の違いは大きく、グレイシー一族が追求するものは競技格闘技の中での優劣ではなく、柔術の武術性であろうと思える。
 しかし、バーリ・トゥードが柔術に有利なルールで出来ていたことはすでに多くの人が指摘しているところでもあり、先に述べたように「武術・闘争術」として見れば、グレイシー柔術といえども、「競技ルール」に則ったマイナスの行為を積んでいることに変わりはない。ある限定されたルールの中では、競技者はそのルールのための戦い方を研究・練習しなければならないのであって、どのように身体や精神を開発しようと、そのルールの枠の中で練習に励むことを余儀なくされてしまうのである。
 競技試合を前提としない純粋武術の系統にはそのようなことが一切無く、ただ黙々と伝承された学習体系を練り、その奥妙を得るために切磋琢磨していくだけである。武術とは即ち戦場のための闘争術であり、少しでもマイナス要因のある「競技性」を廃することは至極当然のことであると言えよう。

 私たちの処には、中国拳術以外にも、フルコン系の空手やテコンドーなどを長年修練してきた者たちが入門してくるが、入門間もない彼らが私たちの稽古を体験した際に最も戸惑うのは、長年の間に染み込んだ「競技のための戦い方」と、これまでその内容が一切公開されたことのない「太極拳の戦い方」との、大きなギャップであるという。
 彼らは毎日のように武術的な自由散手を経験し、その感想を「怖ろしいが、それよりも不思議だという感覚が強い」「戦おうとする以前に、まず、これまでの自分の戦闘スタイルが通用しない」と異口同音に語る。その辺りが、ルールの制約を受けてきたものと、そうでないものの違いであろうか。

 おかしな例えかもしれないが、「ルール」で整備された競技というものは、言わば、お互いの持てる戦力を均等にしたものであり、同じ持ち駒を使い、相手の持ち駒も手の内も互いによく見える、同じステージで公平に競い合おうとする「将棋」のようなものかもしれない。また競技者は、将棋盤の上で持ち駒の使い方を互いに工夫し合うことで第三者に娯楽として見せる事も出来る。
 そうなると、かたや武術は、相手が最後の最後まで何を考えているのかも、どの手札を持っているのかも分からない「ポーカー」のようなものなのかもしれない。


もし戦わば


 これまで述べてきたように、異なるもの同士が同じ土俵で無理に戦うことには何の意味もない。しかし、巷ではいつも、異種格闘技は「どちらが強いのか」ということが比較され、話題になってきた。

 異なる技術体系を持つ者同士の、「○○と○○がもし戦わば」という興味は、きっと誰もが持っているに違いない。だが、そんなことに夢中になってメディアに乗せられるのは、決まって自分で何もそれらを追求したことの無いただの格闘ファンか、それらを中途半端にかじっているだけの者たちだけのように思える。

 かつて「異種格闘技戦」というものが在った。それがナンセンスに過ぎないというのは、少し考えれば中学生にでも分かるような事なのに、プロレスの猪木と極真のウィリーがやる、といえば誰もが興味津々になったものだし、空手のチャンピオンがK1に出ればそれなりに注目され、高田とヒクソンなら、結果はある程度予想がついても、やはり観てみようかと思ってしまうのがニンジョウだが、それは一寸冷静に考えれば、常に観客席で見る側、つまり無責任な立場で居られる「観客側の論理」であり、勝手な期待をふくらませた一種のロマンであって、決して「闘う側の論理」ではないことがわかる。

 その発想は、極端なことを言えば、ライオンやウシとヒトを戦わせるようなものとそれほど変わらない。それは、言わば「闘牛用の牛は強い、スペインでは闘牛士が命をかけて牛と闘う、だから、空手がそんなに強いというのなら、闘牛用の牛と空手家が戦えばよい、勝てるかどうかやってみろ、もしヤルなら面白そうだからオレも見に行こう」・・という類であり、本来、戦いの場が異なるもの同士が「妥協ルール」を定めて試合をしても、面白い興行にはなっても、両者の真の武術的な強さを比べることにはならないのである。

 これは大山倍達氏のことを言っているのではない。大山氏が牛と戦ったのは自他共に許す「空手バカ」と呼ばれる程の、個人としての超人的な強さの追求ゆえであるというし、人間じゃ相手にならん、誰もオレと闘わないんだから、ウシとでもやるしかないじゃないか、というものであったのかも知れない。何より、それ以後、格闘競技として素手で牛と人が戦う新たな「場」が確立されたわけでもない。

 ・・余談ながら、人間が動物と戦うのは非常に大変なことだと思う。
 スペインの闘牛士は剣とケープを以てさえも命を懸けて戦うのであるし、マサイ族は自分の財産である家畜を守るために、たった一本の棍棒で文字通り命を張ってライオンと戦う。また、かの大山先生でさえ、館山海岸でウシと戦っている映像では、ウシの鼻に付けられた手綱をしっかりと手に持ったままで戦って居られるのである。

 私は神戸ビーフなら好んで食べるが、とてもウシと戦う気にはなれない。ましてや、たとえそれがショーのために飼い慣らされたものであっても、ムツゴロウさんじゃあるまいし、熊なんぞと仲睦まじくジャレ合いたいなどとは、全く思わない。
 ムツゴロウさんとは反対に、かつてアフリカへ行った際には、昼寝をしているライオンやサイに日本から持ってきたパチンコを打ってわざと怒らせてみたことがあるし、南太平洋の小島で現地人からダイビングに誘われた時には、「サメ撃退棒」などと称するアヤシイものを与えられた上で、無理矢理サメと戦わされたこともあった。また、吾が家で飼っていたネコやサルにも、コトある毎にチョッカイを出しては動物の闘争本能を学ぼうと試みていたが、もし彼らが本気になれば、たとえ小さなネコ一匹といえども、そう簡単に人間サマが勝利を収めることは出来ないと、つくづく思えた。

 もし何も無い密室の中で、武器を持たず、お互いに生まれたままの格好という公平なルールで、どちらかが生存を懸けて相手を倒さなければならないような状況になったら、ネコどもは間違いなく日頃の猫撫で声から豹変し、歯をむき出して獣の声で唸り、野生の能力を呼び覚まし、キングコングのように大きく見える私に向かって闘争心を剥き出しにして、大いに人間サマをさんざん手子摺らせ、脅かすに違いない、と確信したものである。


 閑話休題。これがスポーツになると、どうであろうか。
 例えば、フットボールというスポーツは、その昔、戦争によって取った敵の族長の首をいかにして自分の陣地に早く持って行くかを競ったとか、処刑した敵の首を蹴り合って遊んだというのがその発祥起源であるという説もあり、今日の紳士の嗜みとされるスポーツは、その発生段階では実際の生々しい戦いと直結したものであったことが分かる。
 そのフットボールは、サッカーやラグビー、アメフトなどの元になったスポーツである。しかしそれらルーツを同じくするもの同士が同じ場で闘うことはできない。そのことは誰にでも簡単に理解できることであろう。硬式野球と軟式野球もそうだ。同じ野球と名が付いていても、それらは同じグラウンドで互いに試合をすることはできない。

 しかし、それらが万人に等しく理解されても、「格闘技」は何故か特別視される。こと「格闘技」となると、何故か、誰もそのように冷静には考えられなくなってしまうのが人間のサガなのか、非常に興味深いところでもある。

 観客席側の人たちは、華やかなライトを浴びたリング上の異種格闘技戦に、「他流試合」のイメージを持って、ある種のロマンを感じているのだろうか。
 宮本武蔵や千葉周作、伊藤一刀斉、柳生一族などの剣豪は、名高い剣豪や流派を次々に倒して自分の名声を高めていったし、柔道黎明期の講道館と柔術諸派連合の公式試合、小説の姿三四郎と檜垣源之助、コンデ・コマや大山倍達の世界ケンカ旅行等々、音に聞く他流試合は枚挙に暇がない。
 確かに、それはある意味ではロマンには違いない。しかし、それらと観客を沢山呼ぶために企画された「格闘ビジネス興行」としての試合を一緒クタにしてはイケナイのである。

 いつだったか、ある人気作家がテレビで、
『格闘技のロマンは「最強」に挑戦することであり、それは何と言っても異種格闘技戦に尽きる。格闘技は相手を倒すための技術として生まれたのだから、その点では、柔道もボクシングも原点はみんな同じ。どれも同じ土俵の上で「最強」を競うことができる・・』という意味のことを語っていた。
 これは、伝統武術や純粋な闘争術としての格闘技を真摯に学ぶ者からすれば、実際の戦闘を経験したことがない、興味本位で闘争術を眺めている無責任な「観客席側の論理」であり、ただの屁理屈と言えるに違いない。しかし、大衆はいつもその屁理屈に賛同し、そこに闘争術へのロマンを見てきた。そして、たとえそれがただの屁理屈に過ぎないものでも、誰かが大衆のニーズに見合うものとして焼き直し、編集し直せば、立派な「ビジネス」になるのであろう。


武術の性質


 武術は、格闘競技とは、ちょうど反対の性質を持っている。
 格闘競技が衆目の見守る中で一定のルールによって戦い、どのように勝利を得るか、どちらが強いかを目指すものであるのに対し、武術は試合場もリングも、何のルールも無い状況で、相手に勝つことさえ、その第一の目的にしてはいない。
 では、ルールが無ければ勝てるのか?・・
格闘技では反則とされる「禁じ手」を駆使すれば勝てるのか?
それとも、秘伝の「秘技・絶招」なんぞがあるから勝てるというのか?
 ・・相変わらずそんな他愛の無い議論も耳にするが、そういう問題ではないし、実際の真剣勝負というものは、先のネコではないが、当然相手も殺されたくはないので、漫画ではあるまいし、ちょっとやそっと禁じ手や絶招を使ったからといって勝てるほど甘いものではない。

 武術とは、勝つためではなく、相手に殺されないこと、様々な意味に於いて相手に対して常に有利に展開できることを第一の目的としている。武術で言う「実戦」とは「戦場に於ける闘い」という意味に他ならない。競技試合で勝つための強さを磨くためにトレーニングに励む格闘競技家とは、その辺りの立場や目的がまったく異なっているのである。

 もし武器を持った相手に武術家が武器で応戦しても、誰も卑怯とは思わないだろう。
 しかし、そのような「ルール無用の危機」の状況に置かれた時に、果たしてルール上の戦闘技術に慣れた心身で戦えるかどうかは甚だ疑問である。路上や戦場では、初めは素手で戦っていても、途中から思わぬ時に武器を出してくる場合もあるし、無論、戦場なら、お互いに何をやっても勝たなくては生きて帰れないので、何が飛び出してくるか分からない。

 武術の学習体系に必ず武器が含まれているのは、武術が戦場のための闘争術であることに他ならない。だから太極拳にも拳術だけではなく、刀、剣、槍、棍、暗器などの武器術が存在している。
 それらは決して美しい表演試合のための小道具ではなく、訓練体系にきちんと武器が存在するのは、太極拳はそれらを用いることを含めて成立している武術ということなのである。

 そして、武術というものは、相手が素手だからこちらも刀を置いて、正々堂々、素手で戦いましょう、というものではない。もし相手がクマだったら、誰もが手近に武器になるようなモノを必死に探すに違いないように、生死が懸かった実際の戦闘に於いては、それは反対であって、相手が素手ならばこちらは武器を持つ、自分が素手で相手が武器を持っていればそれを奪って戦う、というのが正しく、また、自分より強い相手には弱点を狙い、不意を突き、相手の予想を全く裏切る、相手の常識の範疇を超えた意外な方法で戦うことこそが勝利につながる、つまり生還するための知恵なのである。

 勿論これは、太極拳は相手が素手でも必ず武器を使う、という意味ではない。もともと「戦闘」とはそういうものであり、ルールが設定された「試合競技」とは戦う意味が全く異なっている、ということなのである。
 そして、太極拳を含む中国伝統武術は、純粋に「戦場での戦闘」のために生み出されたものであって、ルールで整備された試合を戦闘の場として進化してきた闘争術ではない。
そのあたりが武術と格闘技の根本的な違いであろう。


 当館のオーストラリア支部責任者の父親は、かつてオーストラリアとニュージーランドのふたつのタイトルを同時に保有した、豪州ではたいへん名の知られたボクシングのチャンピオンであり、警察やマフィアからも一目置かれている地元の顔役であるが、彼は私に『興行格闘技のチャンピオン程度では、決して元特殊部隊の老退役兵に戦場やストリートファイトで勝つことができない』と語った。
・・・確かにそうであろう、と、私も思えた。

 実際、特殊部隊の退役兵は、仮令、老いて職務を離れてもなお、その研ぎ澄まされた「武術性」は衰えておらず、実際に手合わせすれば驚かされることばかりで、その年齢からは全く考えられないような、普通の兵隊などとはまったく違う「動き」が出来、非常に教えられることが多い。彼らと戦ってみると、それが紛れもなく「武術」であり、決して「格闘競技」ではないことを思い知らされる。
 現に、海外で時折耳にする、引退した著名な格闘技のファイターが意外なほどマフィアの脅しや、路上での武器を使った喧嘩に弱いことと比べると、彼ら軍の特殊部隊やそれを退役した者たちの恐ろしさは全く比べものにならない。それは、マフィアさえ彼らには容易に手を出さないことを見ても分かる。

 私は、かつてある期間、彼らと寝食を共にして武器を含む特殊な戦闘訓練を重ねながら彼らの実力を実地に体験したことがあるが、その際、自分の中で眠っていた多くの「実戦感覚」を目覚めさせることが出来た。それは私にとっては大きな収穫であり、それらの感覚は、「競技試合」のための練習では到底開発されようのないものであると思えた。
 そしてもうひとつの収穫は、同時に太極拳の実戦性の高さを改めて認識することが出来たことであり、彼らもまた、太極拳の武術としての奥の深さを認識し、日々の「実戦の職業」に活かすために、私に伝えられた太極拳を本格的に学んでみたい、と言ってくれたことである。

 近年、ようやく日本人にも知られてきた、ロシア特殊部隊の極秘の武術であった「システマ」は、巷のスポーツ格闘競技とは全く異なる、非常に精妙な実戦のための技術体系を持っており、まさに
「マーシャル・アート」の名に相応しく思える。
 また、システマのルーツのひとつであるコサックの武術には、驚くべきことに私たちの太極拳の身体操作や訓練方法などと共通点が多く存在し、同じ大陸にある中国拳術との古の秘められた交流を想わせ、たいへん興味深い。
 現在、急速にその存在を世界に知られつつあるシステマが、今後、間違って試合競技化などをせぬことを祈るばかりである。


 さて、伝統武術である「太極拳の戦い方」とは、どのようなものなのだろうか。


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