私は、格闘技と伝統武術のいずれが強いか弱いかを論じるつもりはない。
いや、そもそも誰が強い、何が強い、どちらが強い、というようなことに興味もない。
この時代にあっての一般的な伝統武術の存在意義とは、物騒な世相に対応できる自衛手段という意味もあろうが、その真の価値は、家庭や教育が崩壊したためにすっかり失われ、過去の遺物となったように見える、個人が絶えず自省内観できる精神性と、人間性の高みへ向かって成長していける日々の修養・修練のシステムが、確かなものとして残されているということに他ならない。
その根本を差し置いて、表面的な技巧だけを身に着けるための武術をどれほど追い求めようと、
そこで得られる「強さ」など、高の知れたものに過ぎないと思う。
それに、強い弱いなどというのは、様々な意味において各々の個人的な問題であって、本人が追求する武術とは何の関係もない。小次郎と戦って武蔵が勝ったからといって二天一流は厳流より強いということにはならないように、戦いとは常に当事者個人の問題に過ぎず、各門派の武術理論の優劣の検証にはならないのである。
大体、どちらが強いかと言う前に、向かい合った相手が自分よりも武術的に優れているかどうか、会ってひと目見て判らないようであれば武術家とは言えないであろう。そして、相手の力量が判るのであれば、その上何を求め、何を確かめるために戦わなければならないのだろうか。
この世界では、自分よりも優れた相手には、挑むのではなく、先ず教えを乞うことが道理である。武術自体の深遠さをそのまま己の実力と錯覚し、未だ拙い力を彼方此方で試したくなるような精神状態では武術的な力量も養われる筈がなく、その武術自体の奥深さも、何も分かっていないということになろう。
私は、太極拳は大変優れた武術であり、それを正しく伝えられた上、生涯をかけて学べることを誇りに思っているが、それが地上最強の闘争術であるなどとは全く考えたことがない。
優れた武術、優れた闘争術はこの世界に数えきれぬほど在り、人知れず孤高の拳を磨く優れた武人は星の数ほども存在するのである。一体、何を以て己が信じ求めるものだけを唯一絶対などと断じることができるだろうか。
門人たちはそんなことに全く興味を示さないが、希に門外の方から、太極拳と現今の武道格闘競技とはいずれが強いのか、どちらが武術的に本物なのか、などと訊ねられることもある。
先に述べた如く、私はそのようなことには全く興味がないと申し上げると、では何を以て太極拳が高度な実戦武術だと言うのか、と怪訝な顔をされる。
しかし、伝統武術と格闘技とは、その目的も訓練体系も、何もかもが異なっており、特に死命を制することを目的に工夫され発達してきた武術と、現代という時代背景の中で健全なスポーツ競技として、或いはビジネス興行として成り立っている格闘競技を、その理論や実戦性で比較するのは余りにも無理がある。
ただ、強さの比較ではなく、それぞれの特徴を挙げることは出来る。
今日の格闘競技は、各々がそれぞれのルールの中で優れた闘争技術を見せており、また、それぞれの歴史の中で追求され、完成されてきた立派な闘争術であると思う。しかし、どのような武術がそのベースにあろうと、一旦競技化されてしまったものは、それが故に必ず弱体化され、武術にとって最も大切なことを失ってしまう傾向にあることは否めない事実であろう。
ルールが確立されたということは、競技者はそのルールの中で最高の動きが出来るように訓練を積んでいくということであり、純粋に武術・闘争術として見れば、それは非武術的なマイナスの行為に他ならない。伝統武術の真諦を継ぐ門派が格闘競技に興味を示さないのは、そのような理由も有るのである。
例えば、柔道の試合では相手から「一本」を取らなければならないルールがある。
しかし、その「一本」は、必ずしも相手に決定的なダメージがあるわけではなく、きれいに背中から落ちてくれれば、たとえ相手にまったくダメージがなかろうとも「一本」になってしまう。
つまり、柔道では相手のダメージ如何ではなく、技法が奇麗に決まるかどうかという「見た目」を最も優先して優劣が競われ、競技者はそのための練習に励まなければならない。そして、そのスタイルは町道場でも、オリンピック選手も、警察や自衛隊の訓練においても、基本的には全く同じものである。
柔道と同じ「柔術」をルーツとする格闘技であっても、講道館創始期の天才・前田光世の戦闘理論を受け継ぐグレイシー柔術の学習体系は、相手に如何に「ダメージ」を与えるかということに徹している。
彼らは寝技を得意とするが、柔道と異なるところは、柔道が相手を一定時間動けなくすることを目的にしているのに対し、そこからさらに締めたり、関節を決めたりすることにつないで行くことにあり、柔道では禁止されているグラウンド・ポジションでの関節攻撃をごく当たり前のこととして行うことである。
グレイシー柔術には、明らかに講道館以前の時代に存在した、純粋な武術としての「柔術」の精神が受け継がれており、柔道が或る状況における格闘の形を競技にしたものであるなら、グレイシー柔術は自衛手段としての武術を競技にしたものと言えるかもしれない。コンデ・コマ=前田光世が自らの格闘術を「柔道」とは名乗らなかった理由はこの辺りにあるのだろうか。
名実ともに一族の最高峰であるヒクソン・グレイシー氏は「my personal Bushidoh(武士道)」という言葉をよく用いる。嘉納治五郎以来、柔術は「体育」としての柔道となり、競技として愛され、世界中に広まっていったが、その精神は文字通り西洋スポーツマンシップが基本であり、現代日本では、ヒクソン氏のようなことを口にする柔道家はちょっと見当たらない。
このように、柔道とグレイシー柔術の違いは大きく、グレイシー一族が追求するものは競技格闘技の中での優劣ではなく、柔術の武術性であろうと思える。
しかし、バーリ・トゥードが柔術に有利なルールで出来ていたことはすでに多くの人が指摘しているところでもあり、先に述べたように「武術・闘争術」として見れば、グレイシー柔術といえども、「競技ルール」に則ったマイナスの行為を積んでいることに変わりはない。ある限定されたルールの中では、競技者はそのルールのための戦い方を研究・練習しなければならないのであって、どのように身体や精神を開発しようと、そのルールの枠の中で練習に励むことを余儀なくされてしまうのである。
競技試合を前提としない純粋武術の系統にはそのようなことが一切無く、ただ黙々と伝承された学習体系を練り、その奥妙を得るために切磋琢磨していくだけである。武術とは即ち戦場のための闘争術であり、少しでもマイナス要因のある「競技性」を廃することは至極当然のことであると言えよう。
私たちの処には、中国拳術以外にも、フルコン系の空手やテコンドーなどを長年修練してきた者たちが入門してくるが、入門間もない彼らが私たちの稽古を体験した際に最も戸惑うのは、長年の間に染み込んだ「競技のための戦い方」と、これまでその内容が一切公開されたことのない「太極拳の戦い方」との、大きなギャップであるという。
彼らは毎日のように武術的な自由散手を経験し、その感想を「怖ろしいが、それよりも不思議だという感覚が強い」「戦おうとする以前に、まず、これまでの自分の戦闘スタイルが通用しない」と異口同音に語る。その辺りが、ルールの制約を受けてきたものと、そうでないものの違いであろうか。
おかしな例えかもしれないが、「ルール」で整備された競技というものは、言わば、お互いの持てる戦力を均等にしたものであり、同じ持ち駒を使い、相手の持ち駒も手の内も互いによく見える、同じステージで公平に競い合おうとする「将棋」のようなものかもしれない。また競技者は、将棋盤の上で持ち駒の使い方を互いに工夫し合うことで第三者に娯楽として見せる事も出来る。
そうなると、かたや武術は、相手が最後の最後まで何を考えているのかも、どの手札を持っているのかも分からない「ポーカー」のようなものなのかもしれない。
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