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「武術」としての太極拳 |
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陳氏太極拳を源流とする全ての太極拳は、開祖の陳王廷以来四百年の歴史を有する、非常に実戦的な中国の伝統拳術である。
陳氏の拳術は、歴史的に動乱や匪族から郷土を防衛しなければならなかった必然から生まれた、実際的、現実的な武藝であった。
・・先ず初めに、そのことを明確にしておきたい。太極拳は本来、健康法でもなければ、スポーツでもなく、体操でもなければ、神秘の気功法でもないのだ。
太極拳のすべての練功法や套路は、太極拳を純粋に「武術」として修得するために整備されており、優れた「武術」として如何に実戦的であり得るかという事だけのために、極めて効率の高い科学的な学習法が、何百年にもわたって途絶えることなく、脈々と伝えられてきた。
そして、それは昔も今も、何ら変わっていない。
それは、たとえどのように本家中国の政治体制が変わろうと、時代の変遷と共に、どのようにスポーツ化や近代的改革がなされようと、21世紀を迎えたこの現代にも、本物の武術は確かなものとして正しく息づき、世界中のどこかで、今も真の伝承が続けられていると、私たちは確信している。
幸い私たちは、本物の「武術」としての太極拳のひとつを、正しく学ぶ機会を得た。
そして、本物を正しく学んでみれば、それがまさに「太極」という名にふさわしく、人類の大いなる遺産であるということが実感できる。
中国人が「太極」という文字を目にした時に思い浮かべるのは、その意味そのものの「大宇宙」であり、そして、宇宙の原理を具現した至高の武術としての「太極拳」なのである。
その素晴らしさを、 "本物" に触れる感動を、多くの人たちと分かち合いたいと思うし、もはや「武術」などという枠組みを超えて、私たちの生きる意味や、本来の在り方さえ解き明してしまう優れた拳理拳学を、失伝や衰退をさせることなく、他派の優れた太極拳同様、後世に正しく伝承していく必要がある、と強く感じている。
しかし、太極拳の優れた資質は、何よりも「武術」としての「かたち」を有するが故のことであり、「武術」の本質を離れて陳氏太極拳が存在することなど有り得ない。
太極拳が、空調と照明が完備された「武術博物館」のガラスのケースに入れられる前に、私たちはそれをきちんと整理保存し、「活きた武術」として更なる研究を続け、未来に発展させていく努力をしなければならない。
武術としての太極拳を論ずる前に、先ずはその「武術」というものの定義をはっきりさせておこうと思う。
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「武術」の定義 |
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そもそも、「武術」とは、一体何を意味するのであろうか。
スポーツと武術とでは、いったい何が、どう違うのであろうか。
中国政府によれば、「スポーツ現代武術」とは『競技や娯楽のための運動』であると定義されているが、本来の「武術」とは端的に『戦いの技術』を意味している。
しかし、「武」という文字が「戈」と「止」でつくられていることから、現代では一般的に「戈を止める」、つまり「戦いを未然に制する」という解釈をされることが多い。
例えば、高名な 徐 紀( Adam Hsu Ji ) 氏が主宰する団体はその名も『止戈武塾』であり、塾訓には「干戈(争い)を制止する仁義の行為こそ唯一の武とする」と、高らかに謳われている。
しかし、それは、幾多の戦いに明け暮れた時代を経て、後世の武人たちがたどり着いた平和的で哲学的な新しい解釈であり、本来の、古の「武」の字義とは異なるものである。
「武」の字義がそのような解釈に至ったのは、次の故事に由来している。
『春秋左氏伝』によれば、宣公12年(B.C.598)夏6月、「楚」の国は「晋」と黄河のほとりで戦って大勝利を修めた。
その折、楚の荘王は、側に仕えていた文官の潘党から「京観」(見せしめ用に敵の兵士の屍を何百体も高く積み上げ、その上に土をかけて造った山)を築くことを勧められたが、それに対して、次のように語った。
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・・・お前には到底理解できない事だろう。
文字にあるように、「戈を止むる」と書いて「武」という字ができている
のだ。
周の武王は、商の国に勝つと、干や戈を収めたというではないか。
また、「武」には七つの徳があるというが、私にはひとつの徳もない。
いま、晋は罪とすべき何ものも無く、晋の民は皆、忠義を尽くして主君に
命を捧げたのだ。 どうして私がそのようなものを造って得意がることが
できるだろうか・・・
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楚の荘王は、このように、潘党に勝利の武功をいたずらに誇示することを戒め、黄河の神を祭り、先君を祭る廟を作って戦勝を報告したという。
『戈を止める』という解釈は、この故事によるものである。
また、「説文解字」に「武」という文字の意味がそのように説かれているのも、編者がこの故事に共感してのことであろう。
本来の、古代から存在する「武」という文字の原義は、その字を分解した「戈」の字は、尖った石を手にした原始的な武器が、そのまま戈になってきたことを表し、「止」という字は、もとは足首の象形であり、現在広く用いられる「トドメル」ということ以外にも、「足」や「歩く・進む」などの意を持つので、「武」とはすなわち、「戈を持って戦いに行く」という意味であったことが分かる。
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この「止」の文字は横棒を一本加えて「正」となり、さらに「征」へと意味が強調され、「盛んに歩く」ということを現しながら発展して行き、ついには「他国を征する」の意味を表すようになった。
このあたりが漢字の面白いところだが、「止」に付けられた一本の横棒は「天」を意味しており、「正」とは「天の進む様子」、つまり天体の運行を現し、天体は規則的であることから「正しい」という字義になったのである。
『正露丸』という、昔からよく名の知られた、ラッパのマークの腹痛の薬があるが、これは昭和29年からのことであり、戦前は『忠勇征露丸』と、「征」の字が用いられていたらしい。
この『忠勇征露丸』は、日露戦争開戦2年前の明治35年の発売であり、当時の兵隊がロシアへ遠征する為に作られた、腹痛によく効く丸薬という意味であったのだろう。
この「征」のギョウニンベンは、人の脛が3つある形で出来ており、進み行くことの盛んな様子を現している。
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つまり『征露丸』の意味は、「天ガ動ク如クニ、ロシアヘ進メ、ニッポン進メ、ドンドン進メ、パッパカパーのハラグスリ、ココニアリ!」・・・とでもなろうか。
しかし、そんな時代が終わって、表示の「征」が「正」に変わっても、ロシアへ攻め入るという本来の意味は、字義的にはギョウニンベンの「盛んに歩くこと」が強調されなくなっただけで、何も変わっていないことになる。
もちろん、現在、このメーカーがどのような意味で『正露丸』と名付けているのかは、私が知る由もないが。
話が少々脱線したが、ともあれ、このように「武」の文字が創られた頃には、「積極的に戦う」ことが、その真の意味であったことは言うまでもない。
中国最古の王朝である殷代には、すでに「武術」はかなり発達していたとされ、漢代にはすでに闘争術としての体系を持つ「拳術」が確立されていたと考えられているが、武術の根源となった原始的な闘争術は、ヒトの自己防衛の本能によって創られた最古の格闘技として、人類の発生とともに誕生したに違いない。
やがて、社会が形成されるにしたがって、武術は軍事的技術として体系付けられてきたが、それが国家という大きな社会の軍事力であれ、陳一族のような小さな社会や個人の自衛手段であれ、上述の『積極的に戦う』という意味合いがなければ「武術」とは成り得ないのである。
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武術家の武術性
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私はかねがね、現代日本に生きる一般的な武術愛好者たちが、本当に「武術」を理解できるのかどうか、「武術性」を感じられるのかどうかについて、非常に疑問を感じている。
私のところでも、たとえ拝師弟子(正式弟子)になれるような優れた素質と人間性を持つ者でも、平和な国日本で、平和な戦後の画一的偏向教育を受けて来たことが祟って本当の「武術性」を感知できず、指導上の壁に突き当たってしまうことが往々にしてある。
そして、この平和な国ニッポンで行なわれている中国武術を見聞きするたびに、所詮は文革という大受難の後に、中国政府の監視統制下で「復興」という名の下に許された「スポーツ現代武術」でしかないのではないか、と思えてくる。
私自身は、かつて国外に於いて、特殊な訓練を受けた人たちから、拳銃の撃ち方からナイフの使い方まで、詳細に指導を受ける機会があったが、その経験から、実際に人間を殺傷できる武器の訓練を本格的に受けた経験が有るのと無いのとでは、「武術」に対する感覚や認識が全く違ってくる、ということを、この身で体験することができた。
実際の実戦経験談でも、普通の日本人の武術家が、大勢を相手に派手な喧嘩をやったとか、相手がナイフで突いてきたのをどう捌いた、などということをよく耳にするが、それはあくまでも「平和の国ニッポン」の中での話であろう。
自慢になどならないが、私はニューヨークで数名の暴漢に遭遇した際、小競り合いのあと、後ろから拳銃で数発撃たれ、耳元をかすめる弾丸の音を聞きながら、必死の思いで逃がれた経験がある。
また、サンフランシスコでは薄暗い路地裏で拳銃や刃物を持った複数の人間に取り囲まれ、生命の危機を感じつつ闘ったこともある。
香港では、私が居合わせた会合の場自体が「黒社会」の襲撃の巻き添えを受け、アクション映画さながらに、3階の窓を突き破って路地裏の果物屋のテントの上に飛び下り、ようやくその場を逃れたこともあった。
武術修行上の経験でも、かつて居合の師に真剣を用いた稽古をつけて頂いた際には、知らぬ間に稽古着の袖や腹部の合わせ目を、布一枚残して斬られていたこともあり、着替える時に初めて気付いて、ゾッとした覚えがある。
また、陳氏太極拳の師からは、実際に、何メートルも足が付かぬ状態で、仰角をつけて幾度も飛ばされ、決して誇大表現ではなく、毎回の稽古では高さが3メートルもある後方の天窓近くに、まるで濡れ雑巾でも投げ付けるかのように、背中から叩き付けられることが普通であった。
師の武術は、それこそ幾度もの死線を潜って来た秘密社会系の拳であり、散手の訓練ともなれば、全く何の防御もできなければ、どう躱すこともできない、言わば「一方的」で「絶対的なもの」であり、師がほとんど動かぬにもかかわらず私の拳打攻撃はすべて曲がって逸れ、手が触れれば蜘蛛の巣に捕えられた蝶のように、まったく何の抵抗も出来ず、挙げ句の果てはそのぶざまな格好のままで飛ばされ、意のままに決め技を食らう、という、本物の陳氏太極拳の恐ろしさを散々この身で味合わさせて頂いたものである。
それらの経験を重ねて行くことで、私はようやく「武術」というものの核心を垣間見ることが出来たような気がしている。
今日盛んに行なわれている、中国武術やフルコン空手などの、いわゆる「競技試合」というものを観戦しても何の感動も起こらないのは、所詮それらがルール、つまり、約束ごとで安全が保障された場で、競技として「本格的に」打ち合っているという出来事であるからかもしれない。
それは、本来テニスや水泳と同じ次元で扱われるべき、文字通り技法を応酬し、試し合う、つまり競技(試合う)スポーツであって、所詮は本当の「生命の危機」がある状況から比べれば、迷彩服を着てモデルガンで「本格的に」撃ち合って遊んでいる子供たちとそれほど変わらないようにも見える。
もちろん、誰もが実際の危機を経験するわけにはいかないし、そんなことが無いに越したことはないが、本当の「武術性」というものが、実のところ生命の危機の下でしか味わえないものであるということは、武術を志す者は、よく覚えておくべき事であると思う。
例えば、ビルの屋上の縁に立ってみるだけでもその一端を味わうことができるし、私のように、8時間も乗った飛行機がようやく着陸しようという時に、「どうしても片方のアシが出ない」という機長のアナウンスを受け、胴体着陸に備えて消防車が赤いクルクル灯を回して走りまわる異国のエアポートの上を、燃料をできるだけカラにするために何十分も低空で旋回し続ける機内に居合わせた時にも、胴体着陸での生存率が極めて少ないパーセンテージであることを想えば、ある意味では「武術性」の疑似体験はできよう。
上述した「生命の危機」に関わる様々な経験は、今でも私が「本物の武術」を追求する原点になっている。
それらは偶発的なアクシデントであり、単に私が運が悪かっただけにすぎないことかもしれないが、そのような非日常の経験をひとつずつ経て行くうちに、私の中で、ある「心構え」の習慣が生まれ、以来、そのような状況に遭遇しても余り慌てなくなった。
かつて、刀を腰に差したり、むき出しの拳銃を常に腰に下げていなければならないような時代があった。21世紀に入った今でも銃の所持が認められている国や、常にナイフを身に付けることが男の嗜みとされる国もあるし、実際に武器を所持しなければ安心して散歩もできないところもある。また、職業的に、武器を持たなければ片時も安心できない立場の人も居る。
平和であることはまことに結構なことだが、その平和に浸れることを前提として武術家を気取っているだけでは、本物の武術はおろか、我が身を護る術さえ習得できるはずがない。
私は、本当の武術を学びたいのであれば、日常から「危機」に対する心がけや、武人としての意識を持ち続けることこそ、どのような練習よりも必要であると、後継者を目指す門人たちに、毎日のように説きつづけている。
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