太極武藝館




文革から現在へ



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太極拳が、世に広く知られた経緯

 
 初めに述べたように、陳氏太極拳は、武術的に非常に高度に体系化された実戦拳術である。しかし今日では、それは「武術的要素」が極端に減少し、スポーツ化が進み、本格的な実戦的武術として捉えられていないことは誰もが知るところであろう。

 それでは、なぜ今日では太極拳が「実戦的な武術ではない」とされているのか、それについての考察を以下に述べてみたい。

 それには先ず、中国の歴史を知る必要がある。
 日本の中国武術愛好者は、余りにも本家中国の「歴史」や「現在」を知らない人が多く、嘆かわしく思う。

* * * * * *



 太極拳がその名を世界に知られ始めたのは、中国に毛沢東(Mao Ze-dong 1893〜1976 )が君臨していた時代に於いてである。

 毛沢東は、1949年、新中国の成立と同時に国家主席に就任した。
 その後、1958年の「大躍進政策」失敗の責任を取って国家主席を劉少奇に譲ったが、ソ連型社会主義を標榜する劉少奇・らの実権派に対抗して、1963年には農村社会主義教育運動、1966年には文化大革命を展開。1969年に実権派を失脚させ、毛・林彪体制を確立した。また、1971年の林彪による政変をも粉砕、1976年の死に至る迄、革命の最高指導者として、共産主義国家中国に「紅い皇帝」として君臨し続けたことで知られている。


 1949年、毛沢東は新中国成立の宣言と同時に、直ちに体育組織を改め、新たな体育政策を打ち出し、「全面的な共産主義社会を実現する準備段階として人民の健康を増進し、国防、生産、労働に役立つ、大衆的な体育を展開する」という「新民主主義的国民体育」を提唱した。

 そして、翌1950年には、政府による武術工作会議が開かれ、新中国における新しい武術活動が開始された。これ以降、伝統武術はソ連のような科学的な体育観のもとに「武術」から「スポーツ」へと転換されることになったのである。なお、ここで政府がいう「スポーツ」とは、「競技や娯楽のための運動」を指している。

 それまでの「武術」は、戦場における殺傷技術の要素が非常に強いものであった。
先にも述べて来たように、武術は、民族の体育運動であると同時に、徒手格闘の軍事技術としての性質が濃厚に存在していた。 
 故に、新政府の手の届かぬところで反政府的な軍事力を発生させないためにも、ここで徹底的に「武術のスポーツ化」を図っておく必要があった。新中国成立と同時に、直ちにこれに着手したのには、そのような理由があってのことである。

 こうして、毛沢東の「体育活動を発展させ、人民の体位を向上させる」「古為今用(昔のものを現代に役立てる)」「押陳出新(古くさきを退け、新しきを出す)」などのスローガンのもと、国家体育運動委員会が次々に新しい基軸を打ち出し、古来から何百年,何千年もの伝統ある中国武術を、「技術偏差が目立ち、多くの弊害が生じている」ことを理由に、健康運動やスポーツとして統一化し、伝統武術を「現代武術」と変容させることが図られたのである。

 太極拳関連では、同委員会は「楊氏太極拳88式」をもとに、それをスポーツ化した太極拳運動の套路を造り、1954 年に、雑誌「新体育」に「簡化太極拳24式」の初稿を発表。翌々年の1956年8月には、正式にそれを「国家制定拳」として発表した。
 この年より、太極拳に限らず、すべての伝統武術は、套路はもとより、武器などの技法も全て現代化し、基本功は体育運動化され、すべての中国拳術は「表演競技」として行なわれるようになったのである。

 この年、同委員会は、現代武術を「競技スポーツ」の正式種目として公認した。その競技種目には、拳術、器械、対練、集団演武、対抗性競技(散打)があったが、その中の「散打競技」はスポーツ競技として「危険性が高い」という理由で、1980年代の半ばに至るまで、実に30年もの間、禁止された。
 因みに「散打」の「散」は、「定」の対語であり、定型や定式にあてはまらない自由な打ち合い、という意味であり、現在国家から許可されている太極拳の試合が「散打」ではなく「推手」であることをみても、いかに形式やスポーツルールに縛られた、武術性の低いものであるかが分かる。
 なお、この推手試合に関しては、あらためて後述したい。

 このように、公的な武術は、見方を変えれば30年もの時間をかけて「表演のみの競技」として発達していくことになったのである。

 そして、その年から十年後・・・のちにアメリカや日本の学生運動にまで波及を見せる、
あの「文化大革命」が起こった。


文化大革命と中国武術


 「簡化太極拳24式」が編纂された当時は、経済政策的に「第一次五ヶ年計画期」に当るが、続く第二次(1958〜62年)五ヶ年計画期の「大躍進人民公社政策」での、毛沢東が始めた急進的な農工業の増産運動は、経済の実態を無視して行なわれたため、空前の社会的混乱と経済破綻が起こり、完全に政策が挫折した。この時期の食料不足による餓死者は、少なく見積もっても、2000〜4300万人と言われている。

 また、それに次ぐ「三年の調整期 (1963〜65年) 」では、人民公社が解体の危機に瀕し、その現実に強い危機感を抱いた毛沢東が、それを「修正主義 (資本主義) の発生」であるとして、その修正主義に反対することを名目に、一大政治運動を開始したことが
「文化大革命 (1966年)」の、そもそもの始まりであった。

 そして、十年後の、1976年10月7日の「北京政変」、つまり、毛沢東死去の直後に、当時の政権担当者が「四人組」として文化大革命の混乱の責任の全てを着せられ、逮捕されたことによって、文革はようやく収束に向かい始める。
 その最も激しい混乱期は、1966年から69年までの三年間であったといわれる。


「重大な誤り」の後に・・


 1981年6月の、第11期中央委員会第6回全体会議(6中全会)で『歴史決議』が採択され、
公式に、文化大革命は「誤り」と発表された。
 「文化大革命は如何なる意味でも革命や社会進歩とはいえない」とされ、「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に重大な災難をもたらした内乱である」と断定された。
 また、毛沢東については、「毛沢東は文革では "重大な誤り" を犯したが、功績の方が誤りよりも大きい。功績第一、誤り第二である。」とされた。
 この辺りは、実に中国的な考え方であると言える。

 「CNNIC=China Internet Information Center(中国インターネット情報センター)」が提供する、中国政府の公式サイトである「China Net」によると、中国政府は国際社会に向けて、文化大革命を次のように説明している。
                       (以下、日本向け頁より原文のまま)

『1966年5月から1976年10月までの「文化大革命」は中国共産党中央
 主席毛沢東が起こし、指導したものである。当時、林彪、江青の二つの
 反革命グループが毛沢東の晩年の誤りにつけこみ、陰で国と人民に災い
 をもたらす大量の活動を行い、国と人民に建国以来最もきびしい挫折と
 損失をこうむらせた。毛沢東は「文化大革命」のなかで重大な誤りを犯
 したとはいえ、その生涯からみると、中国革命に対する功績は、その過
 ちをはるかに凌いでいる。』


 さて、その毛沢東ご本人は、1957年2月27日付で「1949年から54年までの間に(文革前・国家主席就任から6年の間に)計80万人を処刑した」と、本人自ら述べている。

 これは、6年間のあいだ、毎日370人づつ休みなく処刑し続けた計算になるが、その12年後に起った文化大革命はその比ではなく、暴力、投獄、略奪、破壊、失職、強制収容所での労働などの直接的な被害を被った人間は1億人を超え、文化遺産や価値ある研究資料の多くが破壊消失され、700〜1000万人(この内、数十万人はチベット人)を超える者が「反革命派」として暴力的に殺され、1400〜2000万人が連行された強制収容所内で死亡した。


 なお、これは遠い昔の話ではなく、つい最近、日本が国を挙げて高度経済成長に浮かれていた、昭和41年から51年に至る、10年間の出来事である。


破壊された武術文化の復興


 太極拳が中国式の健康法として国外にまでアピールされはじめたのは、'56年に「簡化太極拳24式」が発表されてから20年も経った70年代の後半・・文化大革命の終幕を向かえ、「四つの近代化」が推進され、中国が近代的な解放路線のもとで、国家の新しい枠組みを模索し始めてからのことである。

 文化大革命では完全に否定され、非難攻撃の対象となった「伝統武術」は、文革の終幕後には再びその文化が見直され、今度は一転して、徹底的に破壊された武術文化の復興を図る政策がとられるようになった。
 政府の体育機構によって救済が図られた中国武術は、ようやく公的な場での「推手」や「散打」の試合も認められるようになり、1986年3月には、「国家体委武術研究院」が設立され、伝統武術の発掘や国際化が本格的に行なわれるようになった。そして、その結果、1990年には中国が初めて主催した「アジア競技大会」で武術 ( Wu-shu )を公式競技種目として加えるまでにこぎ着けることができたのである。

 日本関連では、1972年9月に田中角栄が訪中し、日中共同声明による「日中国交正常化」が実現し、74年6月には日本太極拳協会から初めて学習団が訪中した。
 また、77年には中国武術代表団が日本を訪れ、9月14日の北九州公演から10月9日の東京公演まで、日本各地を武術表演を中心とする交流活動を展開した。
これは、日中国交正常化5周年記念事業の一環として企画されたものであった。
 1978年8月12日、福田内閣のもと、園田外相が訪中して黄華外相と会談し、『日中平和友好条約』が正式調印された。因みに私の手元には、当時の園田外相の筆による「太極拳運動」という表題の、昭和52年版の全日本太極拳協会編の本もあり、当時の様子が偲ばれる。
 これ以後、日中両国の武術交流が盛んとなり、日本の小さな団体が中国の老師を招いて学習したり、日本人が団体、個人を問わず、中国各地へ私的に研究旅行に行けるようになったのである。



 ・・・このように述べてくると、中国武術はすっかり文革の痛手から立ち直ったかのように見える。しかし、一度徹底して否定され、破壊されたものは、やはり、そう易々と回復するものではない。
 武術をスポーツに変えることはできても、スポーツに変えられたものを武術に戻すことは非常に難かしい。
 先に、『武術は30年の時間をかけて、表演のみのスポーツ競技として発達することになった』と述べたが、この30年という時間は、ほぼ継承者の一世代に相当する。
 
つまり、全ての中国武術は、その伝承系統に1世代分の大きな穴を空けられ、次の世代へ引き継ぐことを、徹底的に、政治的に拒まれたということになる。


日本人の知らない「現在の中国」


 日本人の中国武術愛好者は、現在の中国の姿をほとんど知らない人が多いのではないだろうか。このホームページは、政治とは全く無関係であるが、中国拳術の歴史を語る時に、文化大革命や、革命後の現在の中国の姿を避けては通れない。

 そして、我々日本人のように、一見平和で、安全で、コイズミがどっちを向いていようと、取り敢えずはミサイルは国土に落ちてこないし、ニューヨークのビルに旅客機が突っ込んでも新幹線は爆破されない、と本気で思い込めるような、平和な民主主義の世の中で日々を送っていると、中国へ行った時にはちょっとしたショックに出会うことになる。

 例えば、護身用の電撃棒を大きくしたような「高電圧警棒」を持った警官たちが駅に何人も居て、列車に乗る順番を待つ人々に対して、まるで家畜を追うようにビリビリッと体に当てながら、列を乱さず、効率良く列車に乗せようとする光景が見られる。
 こんなことを東京やニューヨークの警察がやったら国際ニュースになるだろう、と、平和に慣れた民主主義社会からの観光客である我々は、それを目撃して心底驚いてしまうが、中国の人々は自国の政治のスタイルに慣れているのか、不満な顔もせず、だれもが普通のことのように黙ってそれに従い、黙々と列車に乗っていく。

 事実、現在の中国は世界で最も人命が軽視される国と言われ、死刑執行の数は常に世界一であり、詐欺罪でも死刑、姦通罪でも死刑、政治家の汚職も死刑、と、いずれも日本ではあり得ないが、ついこの間は産児制限を利用して赤ちゃんを売買していたとして6人が死刑になったことは、ご存じの通りである。

 もうひとつ。
 中国でのインターネット利用者数は、2003年末には7,950万人となり、その急速な増加により、今や日本を抜いて、アメリカに次ぐ世界第2位となっている。
 「政府許可制」のインターネットカフェは 56,800件(2001年度)あり、大都市に住んでコンピューターを持てない人が利用したり、電話さえろくに無い農村に居住する人は、わざわざ旅行してまで、この「個人が所有することのできる最先端の科学」に触れに来る。
 しかし、このうち、約3,000件のカフェが政府によって「強制閉鎖」され、約8,000件が「行政的指導」を受けている。これは、政府の厳しい規制をかいくぐって "Yahoo" や "google" などの西側諸国のネット情報を「自由に検索」させていた事によるものであるという。
 これについて政府側は、これは青少年の精神衛生上、西側諸国のアダルトサイトなどにアクセスさせない事が、その主な目的である、と発表している。

 また、北京や上海で仕事をしている西側諸国のビジネスマンたちの間では、アメリカの CNN やイギリスの BBC のニュースをホテルやインターネットカフェで観ていると、中国政府に批判的な内容となるたびに、まさにタイミング良く、突然そのアクセスが中断されることがよく知られている。

 本来、世界人類の誰もが自由に検索利用できるはずのインターネットの内容を政府が規制し、中国政府に批判的な情報をカットすることのできる優れた「検閲ソフト(その名も “万里の長城” という)」を開発し、中国の人民に西側の情報(主として自由主義、民主主義的発想)を与えない為の操作努力をしていることは、もはや世界の人々の周知の事実となっている。
 まあ、見方を変えれば、何を考え、何をしたいのかが非常にわかりやすい国であると言えるのだが。

 なお、これらの情報は私見ではなく、アメリカ議会内にある『中国に関する議会執行委員会』及び、米国の情報機関 “Rand Corporation” の調査報告によるものである。


新生中国のシンボル「太極拳」


 この中国で、何千年もの歴史と伝統を守りながら日々の研究と訓練に勤しむ武術家たちは、現在、どのような想いで拳を練り続けているのだろうか。

 民間武術家たちは、このような国家体制がいつ何時ひっくり返ったり、開き直ったりして、文革の再現のように、また酷い目に遭わされるかもしれないことを、どこかで懸念しており、現代スポーツ武術にしておけば、とりあえずは安全、という意識や感覚が強い人が多いのは当然であると思う。

 しかし反対に、政治に迎合して時代の流れに乗ることを否定し、政府から多少睨まれようと試合や大会に参加せず、純粋な武術として従来の伝統を守り、水に潜む龍のように、決して表舞台へ立とうとせずにひたすら拳を練る、本物の武術家たちも少なからず存在しているに違いない。

 何しろ、驚くべきことに、中国拳術は河南省だけでも160種類もの拳種(門派)が存在するのである。なお、河南省は面積が日本の約半分、人口が約9,500万人、中国で最も人口の多い省(日本の県に当る)のひとつとして知られている。

 これまで述べて来たように、中国伝統の「武術」の大多数は、文化大革命の徹底した破壊と、その後の近代化によってスポーツ化し、万人向けの健康運動化が為され、結果として大きく弱体化されることになった。
 そして、その状況の中で "モトは武術" である「太極拳」は、新生中国を象徴する、ちょっと神秘的なテイストを持つ近代中国武術体操として、世界中にアピールするための道具として用いられるようになったのである。


〜Page 3 へ続く〜

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