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Prologue (プロローグ) |
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太極拳の訓練体系は、非常に深く、かつ緻密なものである。
そして、その深さは、「本当のこと」に出会い、学ぶことを許された人間にしか味わうことができない「至福」とでもいうべきものであり、学べば学ぶほどにその奥は深まり、その道程は何処までも限りなく遠くへ延び続けているように思える。
この世界には、どのような分野に於いても、「本物」と呼べるものはそう多くは存在していないのは、誰もが知るところであろう。
本物と出会うことのできる機会は稀であり、出会った本物をきちんと学べる機会はもっと稀であり、そのような本物を修得することができる機会を与えられることは、更に希有なことなのである。
本場中国に於いても、太極拳を学ぶ前に他の拳術門派を学んだ経験のある人たちは、
『太極拳は「すべて」であり、他のあらゆる拳術は太極拳に含まれる』 と、口を揃えて言う。
陳氏太極拳は、太極拳の源流として、今日傍流として存在しているすべての太極拳に通じる、非常に高度な「拳学理論」と「学習体系」を有している。
そして、その「拳理拳学」の詳細は、いまだに一般には公開されていない。
現在、一般に向けて公開されている拳術理論や訓練法は、武術的な学習の体系に則っていない、文革後の中国政府が推進するスポーツ表演競技としてのものであり、本来の太極拳の深さから見れば極めて初歩的なアウトラインでしかないが、殆どの世界中の太極拳愛好者は、それがまるで太極拳の全てであるかのように思い、また、そう信じ込んで練習に励んでいるのが現状であると思う。
優れた実戦武術である太極拳がただの健康体操に成り下がった理由は、中国の「文化大革命」前後の政策の影響を抜きにしては語れないが、そのことに関しては、当ホームページの『武術としての太極拳』の中にある、『太極拳が世に広く知られた経緯』のページを是非ご覧頂きたい。
私たちが声を大にして言いたいのは、私たちのように国家から何の制約も受けず、それをスポーツとしてとらえる必要のないところでは、太極拳は昔日のままの強力な武術として、今も脈々と生き続けている、ということである。
私たちには「真実」を語る用意がある。
もちろん、真実を知るのは決して私たちだけではない。しかし、真実を隠さずに伝えることのできる立場にある伝承者がどれだけ居るのかは、また別の問題である。
私は、本気でこの武術の拳理拳学を極めようとする真摯な探求者には、私が幸運にも学ぶことのできた内容の全てを、余すところなく正しく伝えたいと思っている。
太極拳は高度な人類文化の結晶であり、中国拳術の至宝であり、まさに「太極」と呼ぶに相応しい武藝、すなわち武功藝術である。そして、幸いにして、私たちに伝えられている陳氏太極拳の系統は、真摯に求める者に十全に応え得るだけの拳理拳学の内容を有している。
私たちは誇りを持って、それを正しく、実際的に証明して行こうと思っている。
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全ては「意 (yi) 」によって導かれる |
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陳氏太極拳には『八種の練法』があり、その第一番目に「意気運動」というものがある。
陳氏太極拳の稽古の全ては、意(Yi = 意識・意念)を用いて、武術的、太極拳的に、
如何に身体をトータルに動かすか、ということに尽きると言って良い。
つまり、古人の言う「用意不用力(意ヲモチイテ、チカラヲモチイズ)」が徹底され、
どのような練功に於いても、常に「意」を以てカラダが動くように訓練される。
今でこそ、右脳を活用する本が飛ぶように売れ、あらゆるスポーツでメンタル・トレーニングの重要性が話題にされるが、中国の武術家は古来より「意功 (yi-gong)」、すなわちメンタル・トレーニングこそ優れた功夫の鍵であることを知っていたのである。
高度な武術に於いては、如何なる場合にも、身体はまず「意識の統率」をもって動かされなければならない。
身体が大脳の働きによって動かされていること自体は何も特別なことではなく、ご存じの通り、普段私たちが生活していることの全ては、実はそのようにして行われている。
しかし、この「意識」、つまり大脳の活動を以て全ての運動が成されることを重点的に練る武術と、そのような意識活動にその運動が起因しない武術とでは、その時点ですでに武術自体のレベルが格段に違っており、前者は「高度な武術」と呼ばれ、後者は「二流、三流の武術」ということになる。
「意 (Yi)」、すなわち大脳がもたらす意識活動は、それ以外のすべてを司る最も重要なものであり、また、それは太極拳が伝統ある優れた「武術」であるという背景があってこそ、はじめて意味のある特徴となる。
例えば、現在スポーツ競技や健康法として親しまれている太極拳では、ことさら「武術性」という意味をもって練習する必要は何も無い。そこで要求される意識活動は武術的なものではなく、スポーツ競技としての精神であり、故に、その練功中の意識や意念の中身は、本来の「武術」としてのそれとは大きく異なっているものである。
したがって、そこでは太極拳は「武術」として始まっておらず、伝統ある高度な武術性を持った太極拳の練功による成果(功夫)などは、何ひとつ期待できないのは当然であろう。
私たちが最も大切にしていることは、全ての太極拳の源流とされる、陳氏太極拳が有する、高度で実戦的な「武術」としての内容である。
では、陳氏太極拳が高度な武術であることを証明する「学習体系」とはどのようなものであるのか。
このホームページの性質上、ここで詳細を語ることは許されないが、その特徴をほんの少しお話しして行こうと思う。
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数々の充実した基本功
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私たちに伝えられる陳氏太極拳の学習体系は、高度ではあっても非常にシンプルなものであり、誰もがその高度な拳学理論をシステマティックに学ぶことができる。
その特徴は、「套路」のみに頼らず、数多くの「基本功」、すなわち正しい太極拳学理論に基づく、高度な武術身体を養っていくための、数多くの訓練法を有していることであると言える。
今日では、太極拳と言えば、ゆったりとした套路を練るものというイメージが強いが、そもそも「套路」は、基本功の集大成として練られるべきものなのである。
套路は「表演用の形」でもなければ「実戦の雛形」でもない。
套路は、この「基本功」があってこそのものであり、数々の重要な基本功を知った上で、それを忠実に、綿密に練っていさえすれば、信じられぬほどの太極拳の高みを見せてくれる、汲めども尽きぬ、不思議な「容器(うつわ)」なのである。
従って、充実した「基本功」なくしては套路を練る意味がない。
つまり、基本功の中身こそが、その門派の真の実力であり、秘伝(武藝の本質)なのである。
太極拳の各門派が、套路そのものを隠すことなく明らさまにしているのは、套路の外観からは隠された秘伝は観ることができないからである。門外漢には、そこに秘められた「基本功」の深さや意味を、決して看破することが出来ない。
同様に、練功法の名称や要訣をいくら公開しても、何の意味もない。
ただひたすら、「基本功」と「訓練体系」こそが、隠され、秘められるべき "宝" なのである。
誰かが言うように、確かに拳銃で BAAANG ! と撃たれたらオシマイ、という時代に、秘伝を隠す必要はどこにも無い。それは一面の真理であるが、私は「秘伝」を一般に公開せず、大切にしておかなければならないのは、そういう問題ではないと思う。
もし「秘伝」を、誰彼かまわずどんどん流出させてしまったら、各々の拳術の個性や武術の伝統も、その門派の独自の特徴も、僅か数十年で消え失せてしまうに違いない。
武術を学ぶ人が、皆そろって「マルチプル功夫」をやり始めるからだ。
その時には、何百年もの時間をかけて独自の拳を工夫して来た、個性ある門派の存在はだんだん影が薄くなり、代わりに「秘伝」や「極意」「武術のエッセンス」だけを取り出して教えるような人まで出てくるに違いない。
それは、きっと未だかつて無かったような「ユニークな商売」として成り立つかもしれない。 しかし、もしそのような世の中になっても、それはトータルに「武術」を学んでいることにはならない。「秘伝」を買って来てそれを習うことが出来ても、それは「秘伝の練習」にしかならない。
「武術を学ぶ」ことは、秘伝の専門店で「極意を買ってくる」こととは全く異なっているのである。
本物の武術は、ひたむきに本物の武術をやって来たところでしか学べない。
もし秘伝、つまり「武術の本質」をどこかで買って来ることができるのなら、誰が六百年もの間、
同じことの中で真実を見つけようとするだろうか。
伝統の体系には「すべて」が存在するのである。
そして、その「すべて」を訪ねることのなかで学ぶ秘伝と、彼方此方から寄せ集めた秘伝を個別に
学ぶのとでは、非常に大きな隔たりがある。
学んでから、自分の「実」となるものが、全く違うのである。
それは、海水と同じものを化学的に成分合成して作れたとしても、決して「本物の海水」にはならないことと似ている。たとえそれが、どれだけ限りなく海水に近いものであっても、それは偽物・・つまり「似せてつくったもの」にすぎない。
それは、化学調味料と同じ味の「極意調味料」に過ぎない。
優れた伝統武術の門派には、尋ねるべき本物の「海」がある。
そして、本物の海は、何処で味わっても、同じ本物の海の味がする。
南太平洋と北氷洋で同じ海の味がするように、本物の「武術」は、日本の古武術でも、インド拳法でも、太極拳でも、コザックの武術でも、皆、同じ味がするのだ。
それを本気で味わおうとするか、そのエッセンスだけをお手軽に身に付けるかは、結局は、その人の人生の選択の問題となろう。
ともあれ、今日では太極拳の基本功はすっかり貧しいものになってしまいつつある。
極端な例では、他の太極拳門派からの借り物や、少林拳をはじめとする外家拳からの巧みな応用に思えるものまで存在する。こうなってくると、伝統太極拳をきちんと伝承する武術家たちが、上述の「極意屋さん」からこっそり秘伝や極意を買ってくるような日も、そう遠い未来のことではないかもしれない。
しかし、このような事態になっても、本家の陳家溝や、真伝と共に外国へ渡ったホンモノの伝承者たちは、その基本功の神髄をなかなか公開しようとはしない。
そして、それは当然だと思うし、それは正しい。
武藝の「秘伝」、つまり「武藝の本質や核心の秘密伝承」は、決して大安売り、切り売り、量り売り、記念セール、女性半額、etc・・・冗談ではなく、武術界でもこんな言葉が見られる時代になったが、そんな風に不特定多数の武術愛好者に買ってもらうような類いのものではない、と私は信じている。
私たちも、代々「秘伝」とされてきたものや、本物の「基本功」を守り、それらを慎重に、伝えるべき人にのみ伝えていきたい、と心から思うものである。
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