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これらの疑問点について、私たちは以下のような推論を立てている。
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陳氏拳術と趙堡拳術の交流は存在したか?
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陳敬柏の子孫、陳学忠に伝わる家伝の資料によれば、張彦は陳敬柏の孫にあたる陳鵬と友人であったという。これは、遅くとも陳敬柏の頃から双方の交流があったことを意味すると考えられる。
また陳鵬は、陳清萍を張彦に紹介した際、陳清萍が「太極拳を大変好む」ことを伝え、彼を弟子にしてくれるよう張彦に依頼している。この「大変好む」という表現から、陳清萍は張彦に紹介される以前に太極拳を学んでいたと推測されるので、その頃には既に陳有本から小架式を学んでいだということが窺える。
また、張彦が親友の申し出を聞き入れ、太極拳を陳清萍に教え伝えたことは、陳子明の著書にも『陳清萍為陳有本張炎門徒』と、陳清萍が張彦(張炎)の門徒でもあることが明記されているので、陳清萍が双方の門人であったことは陳氏にも張氏にも共通の事実であったということになる。
また、陳子明の父、陳復元も陳清萍に学んでいるので、少なくとも陳氏から見た陳清萍の存在は、陳有本の弟子である陳氏太極拳の伝承者たる人物であり、趙堡という異なる門派の伝人ではない、ということになる。
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陳清萍は陳一族の出身か?
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2000年1月19日に、陳清萍の五代目の子孫である陳忠森が自らの先祖について書面で発表したところによれば、陳清萍は陳氏一族の出身であり、陳清萍の祖父である13世・陳万抜、陳万選の頃からオオキットウに移り住み、また乾隆年間(1736〜1795)の末葉に、14世・陳錫輅がオオキットウから趙堡鎮に移り、穀物問屋、綿花屋、酒造業などを営んだという。
陳清萍は1795年(乾隆六十年)に趙堡鎮で生まれた。叔父の陳有本に陳氏太極拳を学び、第15世として陳氏太極拳を継承した。その功夫はたいへん優れ、陳有本の小架を元に、後に趙堡架と呼ばれる四種類の練法を工夫して弟子に与え、陳有本の孫の陳金や、陳子明の父・陳復元にも教授した。
陳清萍は、父の陳錫輅が道光25年の冬に病死した後に家業を継いだ後、趙堡で朱氏、候氏、王氏より三人の妻を娶り、陳河陽と陳漢陽という二人の息子を設けた。家業は隆盛し、趙堡鎮の関帝廟の西隣に数十部屋も有る家を建て、趙堡の村を囲むような田圃を数百畝 * 所有し、1868年に73歳で逝去したという。
(註 *:1畝は6.667アール。数百畝は5〜6万坪で、山手線の内側の面積の約半分に相当する。)
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なお、先述の陳忠森氏の祖母の名前が「陳李」であることからも、陳清萍の家系が正統な陳氏であることが窺える。
昨2005年に『李氏系譜』というものが発見されたが、この家譜によると、陳家溝と泌河を挟んで直線距離で 25km に位置する唐村の李氏は、陳一族と陳王廷の頃から互いに娘を嫁がせる関係が代々続いてきたという。因みに、陳王廷の母親は、李氏第七世・李正徳の長女である。
このように、陳清萍から時代が下った祖母の陳李という姓からも、陳清萍は正統な陳氏の出自であることが窺える。
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また、現在、趙堡で陳清萍〜李景延〜張国棟系の「忽雷架」を受け継ぐ、第四代・張随勝老師も『忽雷架は陳家溝の陳一族であった陳清萍が李景延に伝えたものである』と明言している。
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陳清萍は趙堡鎮に入り婿に行ったか?
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上述の如く、趙堡在住の子孫は、陳清萍が陳家溝から来た入り婿ではなく、趙堡で生まれ、趙堡で妻を娶って子を設けた、とある。
実は、陳清萍が趙堡に入り婿に入ったと主張しているのは主に陳氏老架の系統であり、陳金や陳子明などの小架の系統では、陳清萍が入り婿であったという説明はされていない。「入り婿説」の根拠が何であるのか、現時点では謎のままである。
入り婿について一般論においても不思議な点は、もし「入り婿」であるなら依然として陳氏を名乗るのは何故か、ということであろう。
本来であれば、陳清萍の後裔である陳忠森氏も、陳姓ではない姓を名乗っていて当然なのである。
しかし、婿入りした家が上述した李家であるなら、全くあり得ない話ではないかも知れない。
また、実際に陳清萍が19歳の時に「呉」姓の家に入ったという情報もある。
もし本当にこの呉家に婿入りしたなら、その呉家の子孫は存在しないのだろうか。
この点については、さらなる調査研究を続けたいと思う。
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