太極武藝館




陳氏太極拳の歴史と伝承



ーPage 3ー

「源流」の矜持 〜他家の太極拳との相違点〜


 現在、世界中の誰もが TAI-JI や TAI-CHI としてその名を知る近代太極拳は、今なお堅く秘密を守り続ける陳氏の伝承者たちによって研究が続けられ、陳氏太極拳は太極拳の源流としての矜持を保ちながら、更なる発展を続けている。 

 陳氏から分かれた太極門には、先述の楊氏、武氏の他に、呉氏、孫氏などがあるが、中でも陳氏以外の全ての門派の基盤となった楊氏では、陳氏太極拳の「内勁」や「柔法」の部分に独自の研究がなされ、また、楊氏から分かれた武氏や呉氏では、独自の理論によって研究が為され、それぞれに高い成果を上げているように見受けられる。

 楊氏、武氏、呉氏、鄭氏の、それぞれの勁道や発勁を観察すると、陳氏の発勁がどのように理解され、伝承されて行ったのかが伺えて興味深いが、「勁論」に於いては、その研究が行き詰まりを見せていると指摘する研究者も多いと聞く。

 「纏絲勁」は、陳氏太極拳の精華であり、奥妙である。

 『太極拳とは纏絲の法である。纏絲は "中気" を運ぶための方法であり、
    これが明らかでなければ、即ち、太極拳そのものが明らかにはならない』


と、先人が言うように、それは日本の巷の入門書に見られる『螺旋形に捻り出される力』などと安易に説明され得るものではなく、まさに筆舌に尽くし難い秘伝と言えよう。
 しかし、この「纏絲勁」の原理は、陳氏から分かれたすべての太極拳門派に必ずしも十全に伝承され、残されている訳ではなく、各々の門派が独自に解釈をして、更なる発展をさせたものが多いのではないかと思われる。

 発勁で相手を「飛ばす」ことは、太極拳理論でいう「粘と走」の問題であるが、その問題をどのような相手にも効く方法、つまり、相手が「剛」であっても「柔」であっても効果のある方法として修得することは難しく、発勁時の身体操作も、他門派の発勁と陳氏の纏絲勁とは明らかに異なっていることが判る。
 また、『太極漫歩 ( Roam About the World of Tai-Ji ) 』という、現存する全ての太極拳門派が紹介された中国版のビデオにも、残念なことに、実際に発勁を用いたものが紹介されているものは呉氏太極拳のみであり、それも非常にシンプルな、推手対練での発勁が紹介されていたと記憶する。

 それは、楊露蝉から数えて3〜4代の間の時代の変遷と共に、太極拳が平和的、健康的なものになり、その伝承内容に「実戦性」が乏しくなったことと、それに伴い、発勁の根源となる『化勁・蓄勁』の研究が十分に為されなくなってきたことを意味しているのではないだろうか。


 また、発勁に関しては、私たちは、外家拳、内家拳共に、日本で発売されているビデオやDVDなどに、学問として貴重な資料や研究材料となる明確で理解しやすいものを、不勉強にして未だに見出せずにいる。
 私たちが観たビデオの中には、「寸勁」と称して堂々と長勁を打っているものや、「発勁」として弟子を単に押し倒して(倒れてもらって?)いるもの、手首関節の梃子の力で相手を崩しているもの、足先から脚〜腿〜背筋を主に用いて腕で押しているものなどもあり、いずれも『腰勁』が正しく使われていないために、「発勁」と表現するにはほど遠いものも多く見られた。

 私たちが現時点で発勁の資料として注目しているもののひとつに、の「意拳」を正式継承した、姚宗勳老師の子息の姚承光、姚承栄、両老師の兄弟が見せる『発力』がある。
 姚兄弟老師が示す「発力技法」は、意拳が高度な内家拳であることを証明しており、その拳理拳学の体系も非常に緻密に整備されていることが伺え、私たちの小架式と拳理が共通している部分もあった。

 に意拳を学んだ故・澤井健一氏が日本で1940年代後半に創始した「太気拳」は、中国の「意拳」と同じものであると聞くが、現在日本で発売されている、岩間統正、久保勇人、天野敏の三氏のビデオや、『実戦中国拳法 太気拳/澤井健一著』『一撃必倒/姚承光&久保勇人著』『格闘Kマガジン特集/拳聖澤井健一と太気拳』等の雑誌や書籍、および、澤井健一氏が立ち会いの下での『太気拳 VS 極真空手/組手交流稽古(非売品・1985年版)』、或いは『猛牛と戦う空手』のビデオにある、若き日の大山倍逹と戦う澤井健一氏本人の雪中組手演武の様子、等々を観る限り、特に勁力技法理論に於いて、姚宗勳や姚兄弟の見せる「意拳」とは、決して同じものには見えない。

 特に、上記『太気拳 VS 極真空手』の中で太気拳門下が極真空手を相手に見せる組手の技法は、姚兄弟のそれとは余りにもかけ離れており、その中の佐藤聖二氏の組手のみが、意拳の散打技法と近似していたと記憶している。
 なお、佐藤氏は '83年より北京留学の際、澤井門下でただひとり、姚宗勳老師に直接師事した人であると聞く。

 また、太極門では、馮志強老師や陳小旺老師が陳氏老架系の優れた発勁を示されているが、私たちの勁力技法と比べると、基本は同じであっても、やはり細部では異なっていることがわかる。
 さらに、陳清萍の弟子である李景炎(景延)が創始した『忽雷架』の系統の中には、非常に優れた高度な技術体系を伝承し、その套路では実に見事な動きを見せているものもあったが、推手訓練での発勁時に吾々とは異なる用い方をするので興味深い。

 日本では、それとは全く別の系統である徐紀氏独自の『忽雷架』や、陳氏太極拳の老架式を教授する『太極拳の深奥/初・中・上級編』などがあったが、いずれも吾々が望む形での発勁がビデオでは明確に見られず、残念ながら比較研究の対象にはならなかった。

余談ではあるが、かつて私が正式弟子のひとりと共に台湾を訪問した際、台北で徐紀氏と直接お話しをする機会があったが、このビデオで表現されている発勁について詳しくお訊きしたところ、
「あれは全くの初心者への紹介用に製作したものなので、高度なことは何も見せていません」と仰っていた。

因みに、アメリカ版のタイトルは各々、

Chen Taiji Quan (Tai Chi Chuan) Vol 1~3
-- Original Taiji style for health and combat

Thunder Style Chen Tai Chi Quan ( Rebirth of the Hu Lei Jia )
-- Rare branch in the Tai Chi family, unique training system, with emphasis on issuing on power

であり、共に中国語版は発売されていないようである。


誤解された「他家との相違点」 


 陳氏太極拳と、陳氏から分かれた他門派の太極拳には、その演じられる外見上からも、大きな相違が見られる。
 しかし、研究家の間でよく指摘される陳氏と他の太極拳の相違点は、往々にして論拠に乏しい研究不足のものが見られるので、誤解を解くためにも例を挙げて以下に述べておきたい。


(1)『陳氏は激しい発勁動作を表現するが故に「外勁」を用い、楊氏を始めとする
    傍系各門派は、いかにも柔を想わせる演法を見せるが故に「内勁」を用いて
    いる。』


 これはよく指摘されることであるが、全くの誤解であり、私たちにとっては理解に苦しむ意見である。これこそ正に、陳氏太極拳の中身を知らぬ人の言であると思う。

 そもそも、陳氏太極拳の学習は「纏絲勁」を練ることに尽きる。
そして、纏絲勁とは、丹田から発する「内勁」のことをいうのである。

 陳氏の拳理に疎い研究者は、体外に現れる「外繞(がいじょう/wai-rao)」の運動だけを見て纏絲勁であると錯覚するようであるが、纏絲勁とは「意」で運行される内側の働き、つまり、内勁=内纏 (ないてん/nei-chan) のことであり、陳氏太極拳では「内纏」と「外繞」を合わせて「纏絲勁」と呼んでいる。

 もし、この内勁が無く、単なる外形だけの螺旋運動であったならば、武術として実戦時に必要となる「化勁」も「発勁」もままならない。
 よって、陳氏の纏絲勁は「内勁」が充溢していなければならず、この内勁を学ぶことこそが「拳学」であると言っても過言ではない。


(2)『楊氏は "暗勁である抽絲勁" を練り、陳氏は "明勁である纏絲勁" を練るがゆえ
    に、楊氏は陳氏のような激しい発勁の動作が見られない』

(3)『陳氏の纏絲勁(明勁)が、楊氏では抽絲勁(暗勁、化勁)となった』 


 このようなもっともらしい説もあるが、楊氏太極拳が緩やかに柔一色で行なわれるようになったのは、歴史的にはつい最近のことであり、古来からの本形式は、楊氏・呉氏・武氏のいずれも、共に陳氏太極拳のように柔の中にも激しい「剛勁」を含んだものであった。
 また、そのような剛勁を含んだ套路の伝承を大切に保存し、研究を続けている人もまだまだ存在している。

 また、私たちの小架の系統には「暗勁」や「寸勁」が存在しており、「纏絲勁」によってそれらの発勁を行なう訓練をするのである。纏絲勁は目に見える故に明勁で、抽絲勁は目に見えない故に暗勁、などというものではないし、また、楊氏は暗勁、陳氏は明勁などという区別もできない。
 また、楊氏、陳氏、老架、新架を問わず、そもそも「化勁」が無ければ太極拳は戦うことができないのである。対練や基本功、套路に於いても「化勁」を練らなければ何も始まらない。したがって、陳氏の明勁が楊氏で化勁になったわけではないのである。


 また、発勁については、

(4)『纏絲勁は螺旋の動きで勁を導く方法だが、抽絲勁は瞬時に全方位的な発勁が
    できる。故に、楊氏は陳氏の勁を昇華させたものと言える』

 などという説がある。

 このような "珍説" こそ、中国政府検閲済みの現代武術としての陳氏太極拳の、その名も一路・二路などという番号で呼ばれる表演用套路を観ただけの人の、典型的なご意見であろう。

 私は、楊氏の「抽絲勁」と陳氏の「纏絲勁」は、本来同じものであると考えている。
陳氏太極拳の「纏絲勁」は、瞬時に全方位的な発勁が可能であり、もし楊氏の抽絲勁にそれが可能であるのなら、菊の根からタンポポが咲いた試しは無いように、それは陳氏の勁と原理的に同じものであり、楊露蝉は確かに陳氏太極拳の深奥まで学んだという事の証明にはなっても、楊氏が陳氏の勁を昇華させたものであるとは言い難い。

 また「纏絲勁」は、その表演を観ただけでは、何も理解できない。
それは、太極門に本門人として入門を許され、正しい理論と基本を教授され、練功法を学ぶことを許され、なおかつその意味を本人が解き得て、ようやく初めて理解できるものであると思う。


 誤解の最たるものは、次のようなものであろう。

(5)『陳氏太極拳を高度に発展(昇華)させたものが楊氏太極拳である』

(6)『肉体的な観点で言えば陳氏は青年の型、楊氏は老年の型である』

(7)『如何に少ない力で剛的な攻撃を捌くか、という柔法中心の観点に立つならば、
    陳氏は初心の型であり、楊氏は達人の型であると言える』

 先ず、楊氏太極拳は大変優れた拳術ではあっても、陳氏拳術を「昇華」させたものという表現は的確ではない。その発展と「昇華」を論ずる根拠はどこに在るのだろうか。
 もし、元々は剛勁の動作を含んでいた楊氏をはじめとする傍流諸門派が、それを時間の経過と共に柔一色になり、力の満ちた青年に例えられる剛勁が、無駄な力みを捨て去ることを悟った老齢の円熟の境地のようになったことを「昇華」と称しているならば、それは大きな誤りである。
 このような説を持つ研究家諸氏は、果してそれを「個人的感覚」ではなく「太極拳学」つまり、学問上の問題として正しく論証できるのであろうか。
 もし、そのような意見を持たれている研究家がこのホームページに書いた拙文を目にされ、その論証が可能であると思われるのであれば、ご遠慮なく当館の事務局宛てに投稿して頂き、私どもの浅学を正して頂きたいと心より願うものである。

 それが「楊露蝉が陳家溝に学んだ当時の老架式を発展させたものである」と言うのであれば、或る意味で論拠もあろう。しかし楊氏の拳術は、小架を学ぶ私たちから見れば、陳氏の拳術原理の部分的な強調や変化がその中心理論であることが感じられる。
 もし、陳氏の発勁も化勁も未体験の研究者が、「現代陳氏の表演套路」などを分析しただけでそう語るのであれば、それは研究家として少々浅薄に過ぎるのではないだろうか。

 私の伝承したものの中には、『如何に少ない力で、剛的な攻撃を捌くかという柔法』、いわゆる「四両撥千斤」を修得するための練法が存在しており、一般門人の稽古でも、実戦空手を十年も修行したような大男たちが、44歳、修行歴三年、体重60kgの事務職の女性に、ほんの数十グラム程度の力によって数メートルも飛ばされてしまったり、また、ベンチプレスで140キロを挙げるような筋肉を持った屈強な男性が、42歳、体重50キロそこそこの女性の腰を、汗だくのフルパワーで押しても全く押せず、挙げ句の果てには、同じ原理で反対にそのまま数メートルもふっ飛ばされ、宙に舞わされるようなことが毎回の稽古で行われている。


 私自身は所謂「表演用の套路」というものを全く習ったことが無いためか、そのような研究家諸氏の論拠をいまひとつ実感できないが、おそらく論者は文革後の陳氏の「表演用套路」や伝統套路の「基礎架のひとつ」などを観て、そのように感じたのではないかと想像される。

 しかしそれは、単に陳氏太極拳の現代という時代の反映であり、単なる外殻であり、仮の姿に過ぎないことを忘れてはならない。

楊氏三代・楊澄甫
楊氏三代・楊澄甫

陳氏十七代・陳子明
陳氏十七代・陳子明

 先にも述べてきたように、創始者の楊露蝉が奉公先の陳家溝に於いて人生の大半を費やして学んだものは、他ならぬ「陳氏太極拳」であったのである。
 楊露蝉の一生は、1799〜1872年の73年間とされているが、陳家溝で過ごした10歳から40歳までの三十年間の時間の重さは、その人の生涯を陳氏太極拳そのものとして決定づけたであろうことが容易に想像できる。
 また、孫の楊氏三代・楊澄甫の時代の架式を見れば、楊露蝉が如何に誠実に、忠実に陳氏太極拳を学んだかが偲ばれる。
 楊露蝉は少年の頃に下僕として身柄を買われて来た身分にも拘らず、陳家溝ではその実力や人柄を陳一族に十分に認められていたのであり、出身地の違いや、姓が陳氏以外の外族であること、或いは身分の違いなどをもって差別を受けたようなエピソードは、何ひとつ陳家溝に残されてはいない。
 この事からも、楊露蝉は長年陳一族に愛され続け、また、陳氏が「仁」や「義」という武徳を重んじ、武藝にあっては実力主義の一族であった事が伺えるのである。



 さらに、私論ではあるが、楊露蝉は北派少林拳系の特色が濃く残る陳長興の老架を学んだのみならず、当時衝撃的なデビューを飾った陳有本の新架式に出会い、その『纏絲勁内勁理論』を学んだからこそ、後の楊氏太極拳が内勁を用いる「綿拳」や「化拳」と呼ばれる拳術と成り得たはずである。
 幾世代も続いた陳氏拳術が、いよいよその古い殻を破って進化の芽を出す、正にその時、運命的に楊露蝉がそこに居合わせたのではないだろうか。

 私が知る限り、ただ単に老架式を学んでいるだけでは揚氏のような「柔法」は湧き出てこない。老架式系統の推手対練を見るとそれがよく分かる。
 陳有本の新架式(小架)の練法は多くのバリエーションを持ち、特に対練では所謂『四両撥千斤』の勁力を練る。それは内勁や柔法が理解できなければ到底修得しえず、如何に楊露蝉の天才性をもってしても、新架のそれを学ばぬまま、陳長興の老架を母体として、自己流で「綿拳」や「化拳」と呼ばれるものを創出したとは考えにくい。

 陳氏太極拳がその実態を人々に知られるようになったのは、通説によれば、1928年に老架式の伝承者である陳発科が北京で表演したのがその最初であったという。
 陳氏の武藝は、それ迄は門外不出のものとして深く陳家溝に秘められており、史実としては楊露蝉が門外の人間として初めて陳氏太極拳を学んだ事になる。

 また、その拳理が楊氏とその系統に色濃く残る『陳有本系新架・小架式』の存在は、近年までほとんど人々に知られておらず、上述した研究家諸氏の誤解の数々は、陳氏と言えば「老架式」、「陳発科」、「政府認定の表演套路」、或いは近年、文革後に訪中した者が学んで来た「基礎架の套路」など、狭いシチュエーションの中だけで語られて来た故のものであり、言わば拳理拳学に関する正しい情報が不足している故の誤解であると考えられる。
 しかし、それらの誤解を生んだ最大の原因は、その外見だけで、楊露蝉の創造した太極拳が陳氏太極拳と異なる「全く新しい拳術」であるとした、日本の研究家諸氏の先入観ではなかったか。


楊露蝉と澤井健一


 陳長興や陳有本から陳氏拳術を学んだ楊露蝉が、故郷に戻って楊氏太極拳を創始した経緯は、に意拳を学んだ、日本人の澤井健一の姿と重なる。

 楊露蝉は、言わば、澤井健一なのである。
 意拳の創始者であるのもとで修行した澤井健一は、終戦を機に日本に帰り、直伝の意拳をもとに、独自に工夫を加えた「太気拳」を創造する。それは、厳密に言えばの「意拳そのもの」ではないかもしれないが、から継承した「意拳であること」を外れてはいない。

 先に述べた、姚承光・姚承栄兄弟の発力技法と、太気拳・澤井門下のそれが異なることと併せて、そのことがよく理解できる次のようなエピソードがある。

 澤井健一の死後の1990年に、太気拳の高弟たちがの正式継承者であった姚宗勳の息子である姚承光、姚承栄の兄弟を北京に訪ねた。 
 しかし、太気拳の高弟たちは、『当初は交流と、足りない技術を補うことを目的とした訪中』のつもりであったはずが、実際に姚兄弟と手を交えた結果、『私たちは、まだまだ未熟な存在であることを思い知らされた』という。
(『武術』1993年秋号/天野優氏稿/福昌堂刊)

 また、澤井健一の指導法は、
『練習方法が多彩な意拳と比べて、全然細かい体系が無く』『立禅と這いと組手しか無い』
ものであったという。
(格闘Kマガジン2004年1月号/太気拳至誠塾・高木康嗣氏談)

 門外漢の勝手な想像に過ぎないが、おそらく澤井健一の高弟たちは、姚兄弟の動きを実際に体験するまでは、自分たちが姚兄弟とほとんど変わらぬ、「同じ門派の稽古」をして来たつもりであったのだと思う。特に、澤井氏が王門下に入った当初の数年間、澤井健一を実際に稽古指導したのが姚兄弟の父・姚宗勳であったのなら、尚更のことであろう。
 自分達が『未熟である』と思わせた、その大きな実力の違いは、姚兄弟の功夫の高さは無論のこと、練習方法の違いや拳理の理解の相違ゆえであろうが、最も大きな違いは、 という名前まで与えられた意拳の正式継承者である父を持つ、姚兄弟の「源流」の矜持の巨きさや、その武藝を直接継承する者だけが持ち得る訓練体系の密度の濃さではなかっただろうか。

 澤井健一の死後、「太気拳」は、高弟たちが独立して各々に会派を持ち、現在に至っている。
それらの独立した会派は、かつてから独立して太気拳を創った澤井健一と同様、「意拳そのもの」ではなくとも、やはり「意拳の血液」を離れてはいないように見える。
 現在、各会派は、殆ど太気拳の発想のままの岩間統正氏から、意拳の運動原理にかなり近いと思われる久保勇人氏まで、様々なステージで各々が個性的な活動をしておられるが、それらはちょうど、陳氏太極拳から楊露蝉の揚氏太極拳が生まれ、そこからさらに武氏や呉氏、孫氏の各派が生まれて行ったことと同じ事であると思える。


新たなる時代


 現在、陳氏太極拳は、毛沢東以来の中華人民共和国の政策に則り『スポーツ武術競技』としての発展が増々盛んに図られている。
 陳家溝で毎年行なわれる国際的な推手試合を見ても、世界の様々な国で行なわれる套路の表演を見ても、これがかつては乱世に自衛手段として発達した高度な実戦武術であるとは全く想像し難いものに、すっかりその姿を変えてしまっていることがわかる。
 その経緯や詳細については、このホームページの『武術としての太極拳 P.1』を参照して頂きたいが、このような現状のままでは、中国伝統拳術、特にわが太極拳は、遅かれ早かれ、本来の意味に於ける「武術」として衰退していくことは明らかであろう。
 
 中国の大学を卒業して中央国術館の形意拳を学び、現在も中国に頻繁に行き来している当館のある中国班スタッフは、中国武術のこのような現状を憂い、このままでは、やがてそう遠くない将来、私たちのように海外に伝承している陳氏太極拳学の内容を、本場の中国人が教えを乞いに来る日が必ずやってくる、と断言する。

 私たちは、伝統的な実戦武術としての陳氏太極拳を、その拳理拳学と共に整理保存し、後世に正しく残していく努力を決して惜しまないだろう。
 そして、本物の太極拳の深さや高さを、生涯を懸けて本気でこの武術に取り組もうとする真摯な探求者と共に、心から分かち合い、更なる研究と研鑽に励んで行きたいと思っている。


[Page1][Page2][Page3][Page4][Page5][Page6]

[Topへ]


Copyright (C) 2004-2010 Taikyoku Bugeikan. All rights reserved.