太極武藝館




陳氏太極拳の歴史と伝承


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陳氏拳術と張氏拳術


 「趙堡ミステリー」に対する私たちの研究は、今、始まったばかりである。
しかし、私たちは現時点で早くも想像を膨らませ、以下のような「仮説」を起こし始めている。

 前掲した、陳敬柏系・陳清萍系・張彦系の三つの系統の家譜に、このような関係性の線を引いてみるだけでも、これら三つの系統の家が、おそらく非常に親密な関係にあったのではないかと思えてくる。
 それだけではない。「陳氏拳」と「趙堡拳」は、単に拳套だけを見ても、明らかに「元はひとつの拳術」である、と誰もが思うに違いない。
・・これは何を意味しているのだろうか。

 陳氏拳術は、おそらく14世・陳長興、陳有本の世代で、金剛搗碓を初勢とする老架・新架という新たな練法を確立したと思われるが、その陰には、陳家溝と僅か数キロの隔たりしかない趙堡鎮に存在した「張氏の拳術」が見え隠れする。

 張氏の拳術は、その祖を伝説上の人物である張三豊や太極拳経の王宗岳としているが、いずれも「蒋発」をそれらの始祖に近いところに置いている。もしそれが、よく知られる肖像画の、陳王廷の傍らに影のように寄り添う蒋発と同人物であれば、既に9世・陳王廷の時代には、趙堡拳術との交流が密かに始まっていたのではないだろうか。
 常に陳王廷に寄り添うかたちで描かれる蒋発の肖像は、陳氏太極拳が陳王廷の時代から蒋発の武術と何らかの形で関係していたことを暗示しているようにも見える。

 そして、その蒋発をルーツに置く趙堡拳術が「心意拳の傍流」であったと仮定するならば、幾重にも鍵が掛けられている「ミステリー」が、少しずつ解け始めてくる。

 当初、長拳しか持たぬ陳氏が、心意拳の影響を色濃く残す「炮捶」の架式を編み出したのは、実は近隣の趙堡拳と幾代にも亘って親しく交流を続けた成果ではなかっただろうか。
 いや、私たちには、炮捶が編み出される以前から、陳氏と張氏が完全に協力し合ってひとつの拳を創り出した時期があるとさえ思える。
 つまり、陳氏拳と趙堡拳はその時に完全に「ひとつのもの」として融合され、その後多くの戦乱の時期を経る中で、陳氏と張氏が交流しながら、各々が独自の拳術の実戦性を高める工夫を重ねるうちに、陳氏は張氏拳術の拳理を加えて新たに発展し、また、張氏拳術は陳氏の拳術を得て現在の趙堡太極拳へとさらなる発展を遂げたのではないかと思えるのである。

 その、融合された「ある時期」とは、第12世・陳敬柏の時代であると思う。
 これまであまり話題に上ったことがないが、陳敬柏は「拳藝神化」と呼ばれるほどの高い功夫を有した人物であり、主に山東方面を往来する強力なとして音に聞こえた武人であった。その功夫は、彼がやって来たことを聞いただけで盗賊が逃げ出すほどであったといい、その功夫にまつわるエピソードは、彼が死去する直前に至るまで数多く存在している。

 また、前掲の略譜にあるように、陳敬柏は陳氏拳の12世伝人であると同時に、蒋発から数えて趙堡拳術の4世伝人でもある。しかも、趙堡拳に張氏が参入してから直ぐ次の代の伝人となっていることから、かなり張氏の信頼を寄せられた人物であったことが窺える。
 趙堡に伝えられるところによれば、張氏拳術の祖である張楚臣は、陳敬柏の人柄が正しく、信頼に足る人間と見て彼を伝人に迎え、趙堡拳術を伝えた。陳敬柏の武功は非常に優れており、彼に拳を学んだ人間は八百人を超え、その中で優れた者は十六人、その伝承をほぼ十全に受けた者は八名、そして全伝を得た者はただの一人であった。
 また、神技と呼ばれた陳敬柏の功夫は、晩年に到っても往年の実力を失わずに有していたという。

 そして、不思議なことに、このような陳敬柏に関する伝承だけは、何故か陳氏と張氏で寸分違わず一致しているのである。このことは一体何を物語っているのだろうか。これは決して偶然の一致ではなく、陳敬柏が陳氏と張氏にとって共通する「中興の祖」、或いはその「融合プロジェクト」のチーム・リーダーであったということに他ならない故ではないだろうか。

 そして、そうであれば、趙堡の拳譜に「三三拳譜」が入っていても何ら不思議はない、ということになる。
 つまり、「三三拳譜」はもともと張氏拳術に伝承された心意拳譜であり、張氏との交流の中で陳清萍、らが有していたものが次世代の、陳復元らに伝わった、とも考えられるのである。

(つづく)

(2006年1月 新稿)

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